運命の二択 (三) 2009.04.08


クライフォートが西の丸御殿を退出したのは昼八つを少し過ぎた頃だった。定時法でいえば午後二時過ぎである。まったく無駄な時間を費やしたものだ。

好きこのんで長居したのではむろんない。大御所の茶飲み話につき合わされていたのだ。
席を立とうとするたびに、なんだかんだ引き留められては、どうでもいい些末な事柄をえんえんと聞かされるなど苦行以外の何物でもない。

あの奇妙な奥女中はひとしきりクライフォートを眺めてから、「築山と申します。ではまた後ほど」と慇懃無礼に言い置いて、座敷からするりと出て行った。
ちょっと待て、それはどういう意味だ。そう問い返す暇もない。
眉をひそめて考え込んでいると、なんじゃ狐につままれたような顔をして、と狸に笑われた。お前が言うなお前が。

内心愚痴りつつ足早に歩く。日本橋の書物問屋に用があるのだ。約束の刻限は大幅に過ぎている。狸爺に足止めされなければとうに辿り着いていたものを。

和田倉門を出て堀端沿いにまっすぐ進む。左手に八代洲屋敷が見えてきたが通り越し、定火消の叶屋敷の角を右に曲がった。そのまま道なりに進んでいくといきなり塀が途切れる。
立ち並ぶ武家屋敷の狭間に立つ石造りの鳥居。貫中央の額束には大空神社とある。
クライフォートは鳥居をくぐって境内に入っていった。

別に怒りに目がくらんで行き先を間違えたわけではない。
ここに日本橋への一番の近道があるのだ。

大空神社の本殿には奇妙な神像が祭られている。花火の七寸玉ほどの完全な球体で、その上に三本足の烏の像が乗っている。
烏は間違いなく太陽の化身だが、球体のほうは依然謎に包まれている。太陽とも地球とも判然としない。もしかしたら蹴鞠の球かもしれない。
なんせこの神社の祭神は蹴鞠の神なのだ。

どういう仕掛けだか知らないが、この神像の前で行きたい場所を唱えると、瞬く間に目的地に近い分社に辿り着く。分社は江戸の至る所に点在するので、うまく使えば実に有用な移動手段となる。
歩けば半日かかるところでも一呼吸のうちに往来できるのだから、クライフォートのような無精者には非常にありがたい。なお分社からは帰りのみの一方通行で、別の地に足を運ぶにはいま一度、大空神社に戻る必要があるのが難といえば難か。

かくも便利きわまる施設だが、利用する者はとんと見かけない。誰も彼も、そんな御利益があることすら知らないといった風だ。
神社の本殿前の立て札に、その旨は事細かく明記されているのだが。
そんなものに目を留め、かつ実行するような変わり者はクライフォートくらいのものらしい。

拝殿脇を通り抜ける際、ふと足を止めた。
大きなクスノキの神木の根本に、紅絹の鼻緒の草履が転がっている。
近づいて見上げると、はるか上の大枝が揺れていた。

「もー三毛子ってば危ないでしょ〜早くこっちにいらっしゃ……ほえ?」

ほえほえと間の抜けた声のすぐ後で、ぼきりと枝の折れる音がした。

「ほええええぇぇぇぇ〜〜〜 !?」

すっとんきょうな悲鳴につられて、クライフォートがとっさに両腕を広げたら、上から少女がどすんと落ちてきた。
少女は胸にばかでかい三毛猫を抱いたまま、しばらくぼんやりしていたが、大きな目をぱちくりさせながら、

「ほえぇ〜びっくりした〜ってあんた誰?」

きょとんとした顔でクライフォートを見上げた。

年の頃は十六、七。黒い大きな瞳に小ぶりな桜色の唇がとても愛らしい。
長い黒髪を二つに分け、頭の左右の高い位置でそれぞれ結び、胸のあたりまで垂らしている。異国風に言えばツインテールといったところか。
一般にこの国の女の髪型は、後ろに垂らした髪の根本を元結いで結ぶというものだが、このような奇抜なスタイルは初めて見た。

身につけているのは艶やかな友禅の小袖である。
金糸を織り込んだ絹地をオレンジ色に染め、意匠は朝焼けの空に昇る日輪。随所にみずみずしい双葉葵が丹念に描き込まれている。手触り、風合いともに最高級の仕上がりだ。間違ってもそこらの庶民の手に到底届くような品ではない。

結論をいえば、どう見てもただの小娘ではない。

少女はじっとクライフォートの顔を見ていたが、なにかよいことでも思いついたかのようにぽんと手を打ち、にっこり笑って話しかけてきた。

「Nice to meet you ! Do you need a hand ?」

やはりただ者ではなかったようだ。
手を貸そうか、だと? 実際手を貸してるのは俺のほうだろう。
少女を横抱きに抱えたまま、呆れてため息をつく。

「あれあれ通じない? あんたもしかして、三浦じゃなく八代洲の同国人?」
「たしかに俺はオランダ人だが、無理して変なオランダ語で喋らなくていいぞ」
「ふーん。この国の言葉わかるんだ。変なガイジンねえ〜」

じたばた暴れる三毛猫を抱えたまま、クライフォートの腕の中からぴょんと飛び降りた。
二つに結んだ髪が、まるで二本の尻尾のように宙を揺れる。
葵は地面に転がった自分の草履を履いて、くるりと軽やかに振り返った。

「あたしは葵よ! あんたの名は?」
「……ブライアン。ブライアン・クライフォートだ」
「そう。てことは無頼庵ね!」

そう言って葵はけらけら笑った。
どこかで聞いた強引なネーミングセンスだ。ついでに葵という名も。

「ねえねえ。あんた八代洲の知り合いなら、屋敷の場所も知ってるわよね?」

知ってるもなにも、その屋敷に住んでいるんだが。

「お祖父さまってば、あたしに内緒でこそこそ妙な縁組み進めてんのよ。もー頭にきた! ブチ切れた! 城出してやる!」

うすうす嫌な予感はしていたが、やはりこいつか。葵姫。
クライフォートは憂鬱そうに軽く息を吐く。

「――ときに、お前の年はいくつだ?」
「ほえ? 十七だけど〜?」

内心危惧していた三十路の大年増でないことを確認して、とりあえず安堵する。
しかし大御所の腹の内がますます読めなくなった。
通りすがりの異国の商人に百万石の知行をぽんと投げて寄越すに等しい、こんな不釣り合いな縁組みを強引に進めて、奴になんの利があるというのか。

「ちょっとちょっと。ぼーっと考え込んでないで、さっさと案内してよ」
「どこへだ?」
「そんなの八代洲の屋敷に決まってるでしょ」

狸娘改め、木登り山ザル娘は、城出して八代洲の屋敷に転がり込むつもりらしい。
知らぬこととはいえ、よりにもよって当の縁組み相手が滞在している場所を選ぶとは、こいつよっぽどの馬鹿じゃなかろうか。

「三浦の屋敷のほうが日本橋に近くて楽しそうなんだけどねえ。あいつのトコ行ったら、ほんの半時で城に強制送還されちゃうわ」

クライフォートは三浦ことアダムスの人となりを思い出して、なるほど、とうなずいた。
あのイングランド人は人当たり良く飄々としているが、こうと決めたら一歩も退かない気概のある男だ。あれを説き伏せる苦労を思えば、八代洲を丸め込むなど造作もない。

しかし西の丸下の門を出てこの神社に至ったならば、当然、途中で八代洲の屋敷前を通過しているはずなのだが。

首を捻るクライフォートを見て、ああそれはねえ、と葵がすっと右手を挙げた。
西の丸の方角を指し示す。

「西の丸のお庭にこの神社の社があるの。そこからびゅーんとひとっ飛び」

ここの転移システムを利用する物好きが他にもいるとは驚いた。
それよりも江戸城内に容易に出入り可能な装置を置くなど、防御の観点からして問題がありすぎやしないか。敵方に知られたら一巻の終わりだろうに。

「へいきへいき。知ってるの、あたしとお祖父さまと弟だけだも〜ん」

葵はいたって気楽にひらひら手を振る。
それはなんだ、葵だけでなく大御所や世継ぎの弟までが気軽に城を抜け出して、江戸市中をほっつき歩いているということか。八代洲が聞いたら目を回しそうだ。

それはさておき、いつまでもこんな場所で立ち話をしていても埒があかない。
こいつをここに放っていく訳にもいかないだろう。まったく面倒なことだ。
クライフォートは踵を返して鳥居の方へ歩き出した。

「ちょ、ちょっとあんた、どこ行くのよ!」
「八代洲屋敷に行くんだろう。さっさとついて来い、葵」
「ほえ?」

葵はきょとんとしてクライフォートを見た。
その場に突っ立ったまま、大きな瞳を瞬き、戸惑い顔で小首を傾げている。
クライフォートは足を止めて振り返り、葵に向かって右手をさしのべた。

「なにボケっとしている。葵はお前だろう?」
「―――! うんっ!」

葵は嬉しそうに顔をほころばせて元気よくうなずいた。
たんに自分の名を呼ばれただけで、なにがそんなに嬉しいのかさっぱりだが、本人に不満がないなら結構なことだ。

「そうよ、あたしは葵よ! だから姫様とか他の呼び方しちゃ嫌よ!」

葵はクライフォートの手をぎゅっと握ると、真夏の太陽みたいな笑顔でいった。

「お前が俺を無頼庵と呼ぶのを止めたら考えてやってもいい」
「むー、しょうがないわねえ〜。えーと、ぶ、ぶら……なんだっけ?」
「ブライアンだ」
「ああそうそう、ぶらいあん、ぶらいあん」

ひらがなで間の抜けた発音だが仕方ない。
ようブラ公、と馴れ馴れしく呼んでくる隣の定火消、叶恭介に比べればまだマシな部類だろう。
なかばむりやり自分に言い聞かせていると、葵と目が合った。

「なあに。ぶらいあん?」

ほがらかに笑う葵はとても愛らしい。
まあ発音のほうは根気よく直していけばなんとかなるだろう。
柄にもなく楽天的にそう考えたら、葵の右腕に抱かれた三毛猫が、なにやら小馬鹿にしたような顔でニャーと鳴いた。



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