運命の二択 (二) | 2009.04.08 |
しぶしぶ西の丸御殿に赴いたクライフォートは、妙にこぢんまりとした座敷に通された。 したり顔で待ち受けていたのは老獪な古狸、ではなく大御所である。 大御所は中央に設けられた囲炉裏の前に座り込み、なにやら大鍋で煮込んでいる。 人を呼びつけておいて顔も上げず「いまは手が放せん。そこらに適当に座っておれ」というので、クライフォートは遠慮なく大御所の真向かいに腰を下ろし、あらためて室内を見回した。 床の間に置かれた五葉松の盆栽に目を留める。 樹齢六十年は下らないであろう風格ある古木で、大株立ちの根本に相応しい枝振りが実に見事である。葉の色も申し分ない。まったく狸爺にはもったいない逸品だ。 その狸爺はといえば、ヤモリの干物だのタツノオトシゴの姿焼きだの、見るからに怪しげな品々を大鍋に放りんでは、木杓子でせっせとかき混ぜている。 ぐらぐら煮立った鍋の中にちらと目をやって、クライフォートは眉をひそめた。 なにか細長い棒のようなものが鍋の底に沈んでいる。出汁を取る昆布のように見えなくもない。ただしその先端に、小さいながらも五本の指と水掻きがついていなければの話だが。 「ふむ。こんなもんじゃろ」 大御所は満足げにうなずいた。 大釜の中身を茶碗になみなみとよそってクライフォートの前に出す。 「ほれ。ありがたく味見するがよい」 毒沼の色をした謎の液体で、あからさまに異様な臭気が立ち上っている。 味見ではなく毒味だろう。冗談は顔だけにしろタヌキジジイ。 心の中で毒づくと、クライフォートはかぶりを振った。 「結構です。先祖の遺言で、怪しい狸爺の勧めるものは一切口にするなと言いつかっておりますので」 「そうか。なら八重洲。お前が飲め」 そばに控える八代洲の顔が驚愕に引きつった。気持ちはわかる。 「え !? お、大御所様はまたそんな笑えない冗談を……ハハハ…ハ」 「遠慮せずともよい。ささ。ぐぃっと一気にいけ。命令じゃ」 オランダであれ日本であれ、洋の東西を問わず君主の命令は絶対である。 ましてや目の前の狸爺は八代洲の直属の上司というだけではなく、この国の実質的な最高権力者でもあるのだ。到底逆らえる訳がない。押しが弱い八代洲ならなおのこと。 泣く泣く怪しい液体を飲み干した八代洲だが、そのまま畳に突っ伏して倒れた。 「ふむ。やっぱり失敗じゃったか」 どうでもよさげに呟く大御所を、クライフォートは冷ややかに見据えた。 「それで、河童の手なんか煮込んでどうするつもりだったんですか?」 「なんじゃ。目ざといのぅ。気づいておったか」 大御所はイタズラがばれた小僧のような表情で笑った。 「こんな珍しいモノ、誰ぞに試してみたいと思うもんじゃろ?」 「とりあえず自分以外の誰かに飲ませて様子見するのが基本ですね。わかります」 「その方は意外と面白いヤツよのぅ」 老獪な古狸に面白いと評されてもちっとも嬉しくないのだが。 大御所は腕組みをしてしばし考え込んだかと思えば、クライフォートをしげしげと見た。 「その方の名はたしか……無頼庵じゃったか?」 「ヒトの名前に偏屈ジジイの隠居所みたいな字を当てないで下さい」 「しかしの、紅毛人の名は覚えにくいんじゃ。では倉井夫なんかどうじゃ」 「私の名はさておき、今日はまた何用です?」 大御所の提案をさらっと流して、逆に問いを返す。 どうせまたろくでもない用件だろうが、勝手に改名されるよりはマシだ。 「おお、そうじゃ。忘れておった」 大御所は持っていた木杓子を受け皿に置き、あらためてクライフォートに向き直った。 「その方、わしの孫娘の婿になる気はないか?」 「………は?」 大概のことでは顔色一つ変えないクライフォートだが、この時ばかりは意表をつかれた。 大御所の孫娘といえばれっきとした徳川の姫である。一の姫は大坂へ、末の姫は帝の后がね、他の者もそれには劣るがそれぞれ由緒正しき譜代の臣へと、いずれも引く手あまたの身の上だ。異国人の婿を取らねばならないほど嫁ぎ先に困っているとは思えない。 この古狸はまた何を企んでいるのやら。 あからさまにうさんくさいものを見るような目つきで大御所をにらむ。 「河童の毒で脳をやられたんですか?」 「なんなら嫁にくれてやってもよいぞ」 天下の大御所がここまで下手に出るとはますますもって怪しい。 そもそも狸爺の孫なのだ。そっくりの狸娘に決まっている。 「宗家の姫と異国の商人では身分が違いますよ」 「なにを申すか。その方の身元は八代洲から聞いておる。いろいろとな」 八代洲め。余計なことをぺらぺらと。 お前なんぞ頭に皿を載せて紅毛河童になってしまえ。 「――身に余るお話、恐悦至極に存じますが、あいにく所用を思い出したので今日はこれにて」 厄介事に巻き込まれる前にさっさと退散するに限る。 クライフォートが腰を浮かすよりも早く、大御所はにんまりとした顔で付け加えた。 「わしの孫を嫁に迎えるなら、ついでにそこの五葉松の盆栽もつけてやるがの」 この言葉に、クライフォートはいつになく真剣に悩んだ。 こちらの弱みを見抜き、的確に衝いてくるとはさすが狸爺。 五葉松はなんとしても手に入れたい。が、もれなく狸娘がついてくる。やはり断るべきだ。 そうは思いつつ、視線のほうは無意識に床の間の盆栽へと向いてしまう。 身じろぎひとつせず考え込むクライフォートを見て、してやったりとほくそ笑むと、大御所はなにか合図でもするように軽く手を叩いた。 「葵を呼んで参れ」 「あいにく姫様はいま、城下を散策中でございます」 打てば響くようなその声にクライフォートが振り向くと、すぐ後ろに奥女中がひとり、ひっそりと控えている。 年は三十路を半ば過ぎたくらいか。色白を通り越して、薄気味悪いほど青白いその顔は臈たけて美しい。身なりや物言いから鑑みるに、西の丸御殿の奥向きを預かる老女かなにかだろう。 それはさておきこの女、いつのまにこの座敷に入って来たのだ。 つい先ほどまで、背後に人の気配などまったく無かった。むろん障子の前で控えていた者もない。自慢ではないが耳のほうは人一倍良いので断言できる。 そういえば大御所が手を打つと同時に背後の空気が揺れたが、それと同時にこの女が降ってわいたとでもいうのか。 「なんじゃ。また抜けだしおったのか。仕方ないのう」 そうは言いつつ大御所はさほど困った様子でもない。 どうやら狸娘の城出は日常茶飯事とみた。どう考えても尋常ではない。 「幼くして二親を亡くした葵が不憫で、ついつい甘やかしてしまっての。馬鹿息子め。親より先に逝くとは何事ぞ。ほんに長生きなどしたくないものじゃ」 長生きしたくないだと? 筋金入りの健康マニアがなにをほざく。 古今東西の医学書を集めてはせっせと生薬を練り、足腰の鍛錬のため城の廊下を早歩きで往復するという無類の健康狂の古狸を冷ややかに眺める。 「というと、姫の父君は公方様ではないのですか」 「うむ。あのぼんくらではない、もっと優れた兄のほう……あ、いやいや。なんでもない」 大御所はげほごほとわざとらしい咳払いで誤魔化した。 この慌てぶりからして、よほど知られてはまずい事があるようだ。 たしか今の将軍の兄は二人いて、両者とも既に没している。数年前死去したほうは凡庸で大御所に疎まれていたとさえ聞く。 狸爺をして優れたと言わしめる器量の持ち主といえば、もう一人のほうだろう。 と言いたいところだが、あいにくこの考えには無理がある。なんせその兄というのは三十年以上も前に亡くなっているのだ。 ふと恐ろしいことに思い至る。まさか葵という姫は三十路の大年増なのではあるまいな。 自らの考えにげんなりして軽くため息をつく。 クライフォートが妙な視線に気づいたのは、その時だった。 何故だか知らないが、あの奥女中がこちらをじっと見ている。 「なるほど。この者がそうなのですか」 ささやくような、それでいて凛とした声。 好奇心と計算高さの入り交じった静かな眼差しは、クライフォートが本屋の店先で掘り出し物を値踏みする時のそれとよく似ていた。 |
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