サプライズな年代物 2 2007.02.25

 予告もなしに耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある騒がしい声だった。

「チャーオ、ジェンティーレ! 元気〜? ……ってワケでもないみたいだねえ?」

 掛け布団を跳ねとばして飛び起きたとたん、激しい頭痛に襲われる。ジェンティーレはズキズキ痛むこめかみを押さえつつ、目の前の葵新伍をにらみつけ、激しい口調で問い質した。

「なっ……なんだお前!? いつのまに不法侵入しやがった!?」
「え? 鍵あいてたよ。不用心だなあ」

 ちっとも悪びれずに答えて、ひょいっと肩をすくめる。

 ジェンティーレは絶句した。実はここ三日ほどタチの悪い風邪で寝込んでいるのだが、もしやその間ずっと玄関扉は開きっぱなしだったというのか。このザマでは新伍の指摘に返す言葉もない。

「でもジェンティーレが寝込んでるなんて知らなかったな。だってナントカは風邪引かないって……あ、もしかして風邪じゃないとか?」

 己の失態に頭を抱えているジェンティーレに向かって、新伍はわくわくした顔でたずねた。

「んー、だったら熱帯性マラリア? ペスト? 豚コレラ? それともエボラ出血熱?」
「んなワケねーだろ、このバカザル!? ただの流感だ!」

 つい大声を張り上げてしまいゲホゴホ咳き込む。

「なーんだ、ただの風邪かぁ」

 新伍の表情は明らかに残念そうだ。

 こいつ、オレがペストやエボラだったら良かったとでも言いたいのか? ジェンティーレは腹ただしい気持ちを極力抑えて新伍をにらみつけた。

「――で、なんの用だ?」
「あ、そーだった。じゃ、ちょっくら台所借りるね〜!」
「はァ!? おいコラ待て!?」

 ジェンティーレの声なんかてんで無視して、新伍は台所へ走って行った。慌ててあとを追おうにも体調は最悪で、足下がまったくおぼつかない。たった数歩で早くも目眩がしてきた。その場にへたり込んで回復を待つあいだに、大幅にタイムロスしてしまう。

 やっとの思いで台所にたどり着いた時、すでに冷蔵庫は蛮族の侵入を受けた古代ローマ帝国の如く、嘆かわしいまでに蹂躙されていた。

「ちょっとジェンティーレ! なんだよこの中身は。ロクなもの入ってないじゃん!」
「ヒトんちの冷蔵庫勝手に漁るな〜〜!?」
「このトマトソース半年前に消費期限切れてるし、使いさしのオリーブオイルはなんか異臭放ってるし……うわっ、なにコレ!? 信じらんない!?」

 新伍の叫びにつられて、ジェンティーレも冷蔵庫の奥をのぞき込んだ。次の瞬間、見なけりゃよかったと激しく後悔する。

「野菜室の奥に半分ミイラ化したパセリと、殺人事件の凶器になりそーなくらい硬くなったパルミジャーノチーズが放置されてる!」
「お前は〜!? ただでさえ気分悪い時にキモい表現すんな!?」

 だがしかし。デリカシーの欠片もない新伍はすっかり硬くなって釘も打てそうなパンを右手に、左手に放射性廃棄物レベルの異臭を放つオリーブオイルの瓶を掴んだまま、いかにも残念そうにかぶりを振った。

「こんなムダに立派な冷蔵庫と台所なのに……これじゃ宝の持ち腐れだよ」
「知るかそんなの。オレはたいてい外食で済ましてんだよ! だいたいこの台所にあるモンはオレの前の住人が置いてったんだ!」

 そう叫ぶが早いか、ジェンティーレはまたもや強烈な頭痛に襲われた。そのまま糸の切れた操り人形のように力なく床にへたり込んでしまう。

「もー、病人のクセにぎゃあぎゃあ騒ぐから」
「あ、あのな……騒いでんのは……お前のほうだろーが……?」
「あーはいはい。わかったわかった。じゃあさっさとベッドに行こうね」

 新伍は息も絶え絶えなジェンティーレをよいしょと引っ張り起こすと、支えるように右肩を貸し、寝室に向かって歩き出す。

「ちょ、なんでこんな重いの!? 冬山名物の謎の大型類人猿を背負ってるみたいだよ!」
「なんだと!? 南の島のボケボケリスザルがなにほざきやがる!?」
「なんだよ!? おれクルクル巻いた長い尻尾なんかついてないぞ!?」
「そんなもんオレにもついてねえよ、このバカザル!」

 延々とくだらない言い争いでムダに体力を消耗した結果、ようやく寝室に辿り着いたときには、ジェンティーレの体調はさらに悪化していた。

 絶え間ない頭痛に耐えつつ、掛け布団を頭に引っ被って呻いていると、

「じゃあおれ、ちょっくら買い物行ってくるな!」

 ジェンティーレの返事なんか待たず、新伍は玄関から飛び出していった。

 室内はうってかわって元の静けさを取り戻した。

「そーか……そりゃ良かった。もう絶対帰ってくんなよ……」

 なげやりな調子で呟くと、ジェンティーレは寝室のドアに背を向けるように寝返りを打ち、まぶたを閉じた。





 それから数時間後。ジェンティーレはどこからともなく聞こえてくる物音で目を覚ました。

「―――?」

 ゆっくり上半身を起こす。額から氷嚢が転がり落ちた。ありがたいことに頭の中で破鐘を叩くような激痛が、平時の偏頭痛程度に和らいでいる。

 起き抜けということもありとっさに頭が働かず、しばらくボーっと真正面の壁を眺めていると、新伍が台所からひょいっと顔を出した。

「あ、起きた?」

 すぐにまた台所に引っ込むと、盆に小ぶりなソースパンを載せて持ってきた。

 ジェンティーレはいぶかしげに鍋を凝視した。

「なんだこりゃ」
「ごく普通のどこにでもある、ただのパン粥(Pancotto)だけど。おれ風のアレンジでトマト放り込んでみました」
「なにィ!?」

 衝撃のあまり、ジェンティーレの半分寝とぼけていた意識が完全に目覚めた。

 パン粥とは中世以来の古い料理である。レシピは非常に単純で、湯を沸騰させた鍋に残り物のパンとガーリックを放り込んで煮るだけ。その後好みに応じてパセリやオリーブオイル、パルミジャーノチーズ等を加えて完成。言うなれば日本のお粥に相当するもので、病中病後や暴飲暴食後といった胃腸が弱っている時に最適な料理である。

 それはともかく、どうしても訊いておかねばならないことがある。

「おい、これまさか台所に転がってた石化パンじゃねえだろーな!?」
「ちがうちがう。さっきパン屋で買ってきたんだって。トマトもついでにね。ちょうどいい具合に古くなったパン探すの大変だったんだぞ」

 さっそく “ 古パン探して三千里 in トリノ ” を熱く語り出す新伍を後目に、ジェンティーレは安堵のため息をついた。ひたすら神に感謝したい気持ちで一杯だった。

 あんまり安心しすぎて放射性オリーブオイルと石化パルミジャーノチーズ、そしてミイラ化パセリの処遇について追求することをすっかり忘れてしまっている。

「……ならいいが。けどホントにお前が作ったのか?」
「そうだけど。それがどうかした?」

 新伍のはた迷惑な料理道楽ぶりについては、インテルユース所属のメンバーなら嫌というほど知りつくしている基本事項である。腕前のほうは玄人はだし。

 ただし料理の出来映えの落差は激しい。信じられないほど美味なときもあれば、卒倒するほどヒドイときもある。まさしく天国と地獄の二者択一。チームメイトのマッティオに至っては密かに「地獄のロシアンルーレット」と呼んでいたりなんかする。

 しかしそんなことジェンティーレが知るよしもない。

 あらためてソースパンの中身を検分してみる。ためつすがめつ穴が開くほど観察したが、なんの変哲もないパン粥にしか見えない。少なくともジェンティーレの目にはそう映った。

 ひと匙、口に運んでみる。煮込んだパンにトマトの甘味とコクが見事に調和して、えもいわれぬ絶妙な味に仕上がっていた。少なくともその辺のへっぽこレストランの料理など比べものにならない。正直、コザルの腕に感心した。

 しかし感想はあいかわらずそっけない。

「……ふん。まあ食べられないこともないな」
「素直にウマイって言えば?」

 やけに余裕ありげな態度でそう言うと、新伍はすぐそばの椅子に腰を下ろした。にやにやした顔でジェンティーレを見上げる。

「……? なんだよ?」
「ジェンティーレってさ、普段はオレ様一番って感じに威張ってふんぞり返ってるじゃん。でも病気の時はさすがに弱って、ほんのちょっぴりだけど素直になるんだなあって。なんか可愛いイキモノに見えてきた」

 もちろんジェンティーレは顔を真っ赤にして否定した。

「なっ…そんなワケねえだろ!? てめぇの勝手な妄想をオレに押しつけるんじゃねえ!?」
「あー、はいはい、わかったから冷めないうちにさっさと食べてよ。片付かないから」

 今日のコザルはやけに手強い。というか余裕に満ちている。

 内心の気恥ずかしさを必死に押し隠しつつ、ジェンティーレはスプーンでパン粥をかき回しながらそっけなくたずねた。

「そういやお前。なにしに来たんだ?」
「へ? おれ言わなかったっけ。ジェンティーレの誕生日祝い届けに来たんだけど」
「……はァ?」

 ジェンティーレは酢を飲んだような顔で新伍を見やった。今日がオレの誕生日なのは間違いないが、なんでこいつからそんなモン貰ういわれがあるのだ? 親友でもチームメイトでも親戚でもなく、お世辞にも仲がよいとは言い難い間柄だというのに。

「すまん。いまものすごいタワゴト聞いた気がするんだが、オレの幻聴だよな?」
「本当に本当だってば。ちょっと待っててよ」

 新伍は椅子からぴょこんと立ち上がり、せわしなく台所に駆け込んだ。

 ジェンティーレが狐につままれたような気分でぼんやり戸口を眺めていると、枕元のサイドボードに放置したままの携帯電話が鳴った。

「――はい、どちらさま?」
『おい、そっちにシンゴ行ってねーか!?』

 開口一番の大声は新伍の相棒、インテルプリマヴェーラ所属のマッティオの声に相違ない。

 ていうかなんでこいつがオレのケータイ番号知ってんだ? と怪訝に思いつつ、ジェンティーレはどうでもよさげに応えた。

「ああ、台所でチョコマカしてるコザルなら一匹いるが」
『や、やっぱりそうか〜!? あいつ、ちょっと目を離したスキに……!?』

 耳をつんざく大声にジェンティーレが顔をしかめていると、

『いいか。ここで詳しいことは言えねーが、命が惜しけりゃ白プディングは口にするな!』

 そう言い終えるなりマッティオは一方的に通話を切った。

 白プディング? なんのことやらサッパリわからない。ジェンティーレが携帯の着信履歴に目を落としたまま唖然としているうちに、新伍が戻ってきた。

「お待たせ〜! はい、コレ!」

 新伍は太陽のように明るい笑顔で、もうもうと湯気がたちのぼる白い大皿を差し出した。

 一目見るなりジェンティーレはぽとりと携帯を取り落としてしまった。

 皿の上には白くて巨大な円形チーズ、つまりカマンベールタイプの白カビチーズが載せられている――そう思いたかったが、どうにもこうにも無理だった。

 非常に気が進まないが、おそるおそる訊いてみる。

「そ、それは一体………?」
「やだなあ。見ればわかるだろ、クリスマスプディングだってば」
「ウソつけ〜〜〜!?」

 クリスマスプディングの名前は聞いたことがあっても、実際目にしたことはない。しかしジェンティーレが中学の頃、第二外国語の課題で読まされた英国のクリスマス小説の描写では、こんな怪しげな白カビに覆われていなかったように記憶している。

 そもそもなぜクリスマスプディングなのだ。

 こいつ(葵新伍)の生息地はミラノ。となれば素直にミラノ名物のクリスマス菓子パネトーネを持ってくるのがスジってものじゃないのか?

 あまりに動転しすぎて、今が二月だということをコロッと失念しているジェンティーレであった。

「ウソじゃないもん。本当ったら本当」
「ならその全体をくまなく覆い尽くしてる白カビはなんなんだ!?」
「最低1年は熟成されてるってたしかな証拠」
「そんなもん食えるかこのバカ野郎〜〜〜!?」

 ジェンティーレの悲鳴にも似た絶叫など気にも留めず、新伍は自信満々の面もちで胸を反らして言いきった。

「たった1年や2年、へいき平気。だってクリスマスプディングだもん」
「だーッ、ぜんぜん根拠になってねえっ!?」
「徹底的に茹で上げたから大丈夫。善玉菌も悪玉菌も病原菌もイチコロだって」
「世界大戦時のいい加減な衛生兵みたいなこと言ってんじゃねえよ!?」
「じゃあおれ、明日試合だから帰るね」

 新伍は白カビプディングの大皿をジェンティーレに強引に押しつけ、手早く帰り支度を済ませて玄関先へ歩き出す。

 ジェンティーレは真っ青になって叫んだ。

「ま、待て! いや……お前が帰るのは大歓迎だが、これも一緒に持って帰れ!」
「来月こっちで試合あるから、その時に感想聞かせてくれよなー!」

 新伍はドアノブに手を掛けたままふり返り、邪気のない笑顔で死刑宣告に等しい言葉を残すと、さっさと出て行ってしまった。

 不気味な静けさの中、ジェンティーレは途方にくれた眼差しで白カビプディングを見つめた。それは死人の経帷子のようにブキミに青白かった。

 さっきマッティオが電話で言ってた「白いプディング」とはこれのことに違いない。確かにこんなもの口にしようものなら、一発であの世に逝けそうだ。

 いっそこのまま生ゴミ処理機に放り込んでしまおうか。そんな誘惑に駆られたちょうどその時、再び携帯が鳴った。なかば無意識に通話ボタンを押すと、

『やあジェンティーレ。調子はどうだい?』
「………今度はお前かよ、ヘルナンデス。オレはいま取り込み中だ。じゃあな」
『シンゴのクリスマスプディングのことだけど。まさかこっそり捨ててしまおうなんて紳士的じゃないこと、企んだりしてないよねえ?』

 ジノに思いきり図星を指されて、口から心臓が飛び出しそうになる。危うく「お前どこで見ていた!?」と口走るところだったが、すんでの所で引っ込めて、

「あ、あたり前だろーが。この俺がいったん貰ったモンを捨てるなんて、そんな礼儀知らずなことできるかよ!」
『いい心がけだね。俺もプディングの感想楽しみにしてるよ。それじゃ』

 やんわりと真綿で首を絞めるようなセリフを残して、ジノは通話を切った。

 しまった、と思ったがすでに遅かった。ジノに言葉巧みに誘導されたとはいえ、自ら退路をふさいでしまうなんて、我ながらマヌケにもほどがある。

 しかしいやしくも男がいったん明言したことをあっさり翻すわけにもいかない。そんなことはジェンティーレのプライドが許さなかった。たとえそれが生命の危機に直結したものであってもだ。つくづく損な性分である。

 とりあえずプディングを台所へ持って行き、前向きに考えてみた。

「周囲の白カビ擦り落としたら、少しはマシになるか……?」

 金属タワシを片手に眉間にシワを寄せて真剣に悩んでいると、来訪者を告げるインターフォンが響いた。遠慮なしに突然ズカズカ踏み込んでこないところを見ると、忘れ物を取りに来た新伍ではないようだ。

 ドアを開けるとファー レン フォルトが立っていた。

「調子悪いところをすまん。こないだ頼まれた資料持ってきたんだが……」
「……ああ、わざわざどうも」
「いや、どうせ近所だし。思ったより元気そうで安心したよ。今年の風邪はタチ悪いからな」

 そう言っておだやかな笑みを浮かべる。なんの偶然だか知らないが、このオランダ出身のユベントス正ゴールキーパーは、ジェンティーレの住まいからほんの数ブロック先に居を構えていた。

 実力は確かなのだが、性格のほうは某インテルの性悪キーパーとはほぼ真逆で、ボーっと年がら年中小春日和なお人好し。漫画でよくある、自分の足につまづいてはすっ転んでるようなタイプである。

 ふとその時、ジェンティーレのささくれだった心の隙間に邪悪なアイデアが忍び込んだ。普段の彼であったなら絶対に思いつかなかっただろう。魔が差したとしか言いようがない。もしくは心神膠着状態のなせる技。

「せっかくですし、ちょっと寄っていきませんか? ファー レン フォルトさん」
「え、でも迷惑じゃないのかい?」

 ジェンティーレは妙に愛想良く言った。

「ちょうどプディングが茹であがったところなんです。おひとついかがですか?」




>あとがき

ジェンティーレ誕生日おめでとう話。
更新時点で日本はすでに25日ですが、トリノはまだ24日です。
だから問題ないのです。ええ、そうですとも。


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