■ ここだけの話だよ | 2007.01.05 |
とっぷり日も暮れたミラノ市街の街外れ。 ジノ・ヘルナンデスは閑散とした路地をとぼとぼ歩きながら、マーガレットの花びらを一枚ずつむしっていた。 「帰る、帰らない、帰る、帰らない――」 どうやら花占いの真剣勝負真っ最中らしい。日頃のジノを知る者が見たら、驚愕のあまり卒倒しそうな光景である。 この花は通りすがりの他人の庭先から勝手に拝借したものであるとか、そもそもマーガレットは恋占い用だとか、この場に限って言うならばそんなこと大した問題ではなかった。 真に重要な問題はただひとつ、花びらの枚数だった。少数の例外を除いてマーガレットの花弁はほぼ奇数と相場が決まっている。つまり「帰る」から始めると必ず「帰る」で終わってしまうのだ。きわめて遺憾なことにジノはこの致命的な事実を知らなかった。 「―― 帰る、帰らない、帰る、帰らない ――――― 帰る!?」 最後の一枚をむしり取って、思わず声を荒らげる。勢いあまって握りつぶしてしまった花をぽいっと投げ捨てると、ジノは悄然とうなだれてつぶやいた。 「シンゴ。本当にあきらめて帰ってしまうのか……?」 そうは思いたくない。だが今日の午後、新伍の様子はあきらかに変だった。 マッティオたちのあからさまな挑発にも乗らず、どこか吹っ切れたような表情で明るく走り去った新伍の後ろ姿が気になってしかたない。 本当に日本に帰るつもりなのか。それどころかサッカーそのものに見切りを付けてしまったのではなかろうか。 このまま努力を怠らず順調に実力をつけていけば、新伍なら必ずセリエAで活躍できる選手になれるのに。あんな連中のくだらない妨害なんかに挫けて、自分で未来の扉を閉ざしてしまうなんて馬鹿げている。 ジノは拳を握りしめ、憤りをぶつけるように夜空を仰いだ。 無数の白銀の光が凍りつく大気を震わせてひそやかに瞬いている。雲ひとつ無い夜の空の高みから、月はなにもかもお見通しだといわんばかりに冷ややかに輝いていた。軽く胸を衝かれる。知らず自嘲の笑みを浮かべていた。 新伍の才能を惜しむ心に偽りはない。 けれど本当のところは――俺は初めて出来た友人と別れたくないだけなのだ。 自分で言うのもなんだが人当たりはかなり良い方だ。当たり障りのない会話を楽しむ程度の友人には不自由してない。ただ本音でつき合える親友と呼べる存在が見あたらないだけ。 思えば幼い頃よりずっと俺は、同世代の仲間うちから妙に浮いた存在だった。みんな常に一歩退いた態度で接してくる、いわゆる“敬して遠ざける”状態が長年続いている。 サッカーに関して一頭地を抜く才能とやらを有するうえ、周囲の大人連中からことあるごとに別格扱いされる奴なんか、あまりお近づきになりたくないと思うのは至極当然のことだろう。 俺自身も無意識のうちに、彼らを見下すような態度や言動を取っていたのかもしれないが。実際心当たりがないでもない。なんにせよそんなことたいした問題じゃなかった。ひとりでも特に不自由を覚えたことはないし、その方がかえって煩わしくなく自由だとさえ思っていた。 俺がそんな心地よい孤独に慣れきっていた頃、ひょっこり現れたのが新伍だった。 出会った時からやけに印象深くて、つい興味が惹かれて、試みに話しかけてみたら予想以上に変わった奴で。 いささか大きすぎる夢をなんのてらいもなく語るまっすぐな瞳につい釣られて、いつのまにかこっちも本音を漏らしてしまった。同じ夢を同じ目線で語り合うなんて初めてのこと。俺自身驚いたが別に不快な気持ちはなくて、むしろ可笑しさがこみ上げて仕方なかった。 なんだかんだいって自分は寂しかったのかもしれない。 この世に生を受けて16年。短いようで長い人生において、初めて遭遇した記念すべき親友なのだ。そうやすやすと失うわけにはいかない。 ジノは軽くうなずいて、さばさばとした口調で言った。 「しかたない。俺も真剣に検討してみるか。日本行き」 これまた関係者が聞いたら動転してひっくり返りそうなセリフである。 しかしジノはいつになく本気だった。 「早く帰ってパスポートを引っ張りださないと。身分証明書も必要かな。滞在許可書はどこで取ればいいんだろう? まあ明日の朝イチで市役所に問い合わせてみるか」 イタリア人が日本に長期滞在する場合、滞在許可書の申請など必要ないのだが、そんなことジノが知るよしもない。 「次はクラブのお歴々をなんて言いくるめるかだな」 一応これでもユース世代ではイタリア一のキーパーと見なされ、前途を嘱望されている身なのだ。「一身上の都合でクラブ辞めます」と言ったところで、インテル上層部がそう簡単に首を縦に振ってくれるとは思えない。 父親が危篤なので急いで帰郷しなければなりません……は、俺の家族はミラノ在住なので却下。 ノロウィルス感染による非細菌性急性胃腸炎で当分休ませて頂きます……これでは退団以前に出国許可が下りない。 他にあれこれ考えてみたが、いかんせんうまい言い訳が出てこない。もしやこれが噂に聞く“精神膠着状態”というものだろうか。ここはひとつ発想を逆転させるべきか――。 人気のない路地を冬眠前のクマのようにうろうろ歩き回りつつ、この難局を打開できるナイスなアイデアを求めて頭を悩ませていると、ふいに天啓のように閃いた。 ――ケンカの大原則は先手必勝、リーダーを倒せ。 「そうだ、その手があったか!」 組織というものは得てしてリーダーに従って動くもの。新伍を本気で排除したがっているのはマッティオくらいのもので、残りの連中はその意向に従って行動しているに過ぎない。 早い話、マッティオをシメてしまえばいいのだ。 そうすればインテルユニオーレス内部のゴタゴタも自然と収まるだろう。そもそもマッティオの新伍イジメは友情がらみの逆恨み。まったくもって正当性に欠けた行為だ。俺が新伍を守るという理由で奴に正義の鉄槌を加えたところで、文句を言われる筋合いなど全くない。 すばやく自分に都合のよい理論武装を終えると、ジノはきびすを返した。 面倒ごとは今日中にさっさと片づけてしまうに限る。記憶のデータバンクから手際よく引っ張り出したマッティオの住所を脳裏で反芻しつつ、暗い路地を歩き出したその時、勢いよくボールがバウンドする音が耳にこだました。 こんな夜更けに街外れでいったい何事か。ジノは訝しげに眉をひそめて、すぐ横の壁に開いた大穴から覗いてみた。塀の向こう側で繰り広げられている光景に息を呑む。 「……シンゴ」 正規の練習のあと、新伍がこんな寂しい場所で秘密裏に猛特訓しているなんて夢にも思わなかった。 過酷な自主トレに黙々と打ち込む新伍の表情に諦めの気配など全くない。多対一の不利な状況でも一歩も退かず、あくまでも真っ向から勝負するつもりなのだ。 どうやら俺は新伍を少々見くびっていたらしい。本当に興味深いよ、君って奴は。 忍び笑いを漏らすと、ジノは静かに立ち去った。 「――というわけなのさ。命拾いしたねマッティオ」 インテルユニオーレス新年会の席上で、ジノは長い打ち明け話を締めくくった。ワイングラスを片手ににこやかに微笑む。その表情には罪悪感などほんのひとかけらも見あたらない。 マッティオは頭痛がしてきた。これは決してワインの飲み過ぎのせいではない。 「……前から思ってたんだけどさ。お前、良心持ち合わせてないだろ。あと常識も」 「元はといえばお前のせいだろう? 身から出た錆というものじゃないか」 ジノはしれっと言い返すと、ちらりと向かいのテーブルに目を遣る。 「もちろんここだけの話だよ。シンゴには内緒だからね」 新伍はフランコをがっちり捕まえて、なにやら一方的に喋りまくっていた。きっと先日のナターレのことを面白おかしく説明しているのだろう。時折フランコが哀れむような視線を向けてくるのが、マッティオには癪に障って仕方ない。 実際、哀れまれても当然の状況だったのだが。 上の姉三人と下の妹三人からの恐怖の板挟み攻撃に加えて新伍の正面突撃まで喰らうなんて、近年まれに見るすさまじい悪夢の聖夜だった。「ちょっと急用で」と適当にお茶を濁してそそくさと逃亡した親父がひたすら憎らしい。 ジノは幸せそうに目を細めて新伍に見入っていた。 マッティオはいぶかしげに首を傾げた。目の前のジノの姿に妙な違和感を覚える。「なんかこいつ雰囲気変わった?」と内心つぶやかずにはいられなかった。 そもそもマッティオに打ち明け話をしてきたこと自体、にわかに信じがたい出来事なのだ。どんなささいなことであれ、ジノ・ヘルナンデスが心の裡を他者に告げるなんて、今までの経緯を考えても100パーセントあり得ない。まさに青天の霹靂である。もしや脳天気だが気のいい新伍に感化されて、どす黒い性格が心持ち改善されたのだろうか。 「――妙な顔してどうしたんだ、マッティオ?」 「あ、いや。なんでもないなんでもない」 マッティオはあわてて取り繕った。余計なことは口外しないのが長生きの秘訣である。 ジノは不審そうにマッティオを見やって、 「腹でも壊したのか。ああ、正餐のトルテッリーニに入れた下剤が今ごろ効いてきたのか」 「ちょっと待て今なんと?」 「正餐のトルテッリーニに入れた下剤」 ジノは問題発言をいけしゃあしゃあとリピートした。 マッティオの顔が真っ青になる。 そう、十二月二十五日の正餐はジノの家で取ったのだ。断固拒否したにもかかわらず新伍にむりやり引っ張って行かれ、挙げ句、ヘルナンデス邸の玄関先でジノにこれでもかと言わんばかりに冷ややかに出迎えられたことは記憶に新しい。 正餐のメイン料理はナターレ定番のパスタスープ。その名もトルテッリーニ。 「しかし七日も前なのにねえ。マッティオって神経鈍いかひどい便秘症?」 「こ、この野郎〜!? なんてことしやがんだ………うっ!?」 血相を変えてジノに詰め寄ろうとした時、実に絶妙のタイミングでマッティオの下腹に悪寒が走った。いまのところゴロゴロとぐずついた小康状態に留まってはいるものの、遅かれ早かれ大荒れになるのは火を見るよりも明らか。 マッティオとしてはこみ上げるジノへの怒りを抑えて、ついでに腹も押さえてトイレに走るより他に術はなかった。 「おやおや、冗談だったのに。ホント引っかけられやすいタイプだねえ」 遠のいていくマッティオの足音を聞きながら、ジノは楽しげに笑って言った。 >あとがき ジノの世にも恐ろしい打ち明け話。 後半はナターレ話の数日後です。 たまにはシリアスでいこうかと思いましたが、やっぱり無理でした。 とりあえずマッティオの冥福を祈っておきます。 ← 戻る |