Buon Natale! 2006.12.24

 クラブハウスを出るやいなや、マッティオは不意打ち的に背後から飛びつかれた。

「なあなあマッティオ! おれ訊きたいことあるんだけどー!」
「く…苦し……放…せこのバ…カ……野郎……!」

 ふり向いて怒鳴りたくても息が続かなかった。

 新伍がコザルのように背中に張り付いたまま、マッティオのマフラーをきゅっと引っ張っているのだ。首がきつく絞まって息ができない。ふりほどこうともがくうちに酸欠で気が遠くなってきた。まさに絞め殺される一歩手前の崖っぷちといった状況だ。

 新伍はマッティオの都合などお構いなしに、好奇心に満ちた表情でたずねかけた。

「ナターレってなんだ?」
「………はァ?」
「さっき帰りがけにフランコに“Buon Natale!”って言われたんだけど意味わかんなくてさー」

 そう言って新伍はマッティオの背中からぴょんと飛びおりた。

 何度も大きく深呼吸して心拍数が平常値に戻るのを待つ間、マッティオは新伍の言葉を脳裏で反芻する。やがて呆れたように新伍を見下ろして、

「ったく、やぶからぼうにヒトの首絞めてなに言いだすかと思えば。……ナターレ? その言葉の意味まんまじゃねーか」
「そーなの? じゃあ誕生日ってことか。って誰の?」

 新伍は腕を組み、真面目な顔で考え込んだ。

「おれの誕生日は2月だし……ああ、マッティオの誕生日か!」
「そこでなんでオレの名前が出てくるんだ!? ジーザスに決まってんだろ、このバカ!」
「ジーザスってあのロックミュージカルで歌って踊り狂ってるヤツのことか? ジーザス・クライフ・スーパースターとかいう」
「ちがーう! 前者の喩えもビミョーに変だが、空飛ぶオランダ人は完全に別人だ! ジーザスったらGesu Cristoに決まってんだろ!」

 思わず怒鳴ってしまったせいか、マッティオのいまだ戻りきってない心拍数が再び跳ね上がる。またもや頭がクラクラしてきたので、とりあえずその場にしゃがみ込んで呼吸を整えていると、

「ああキリストか。てことはメリークリスマス? 最初から素直にそう言えばいいのに」

 新伍はガッテンしたようにポンと手を打った。

「そっかクリスマスか。みんなでパーティ開いてケーキ食ってパーッと騒いだりしないの?」
「仲間内で騒ぐのは大晦日だ。ナターレってのは身内で地味に祝うもんだぞ。普段は離れて暮らす家族が年に一度、実家に集まる日だな」
「ふーん、なんか日本と反対だなあ。ナターレって正月なのか〜」

 新伍は感心したようにうなずいた。

 日本の“正月”がどんな行事であるか詳しいことは知らないが、どうやらイタリアのナターレとよく似た風習らしい。マッティオはふいに気がついた。

「そういやお前。クリスマス休暇、日本に帰らないのか?」
「うん。おれ、こっちでプロになるまで家に戻らないって決めてるから」
「そりゃまた気の長い話だな。一生なれなかったらどーすんだ?」
「おれ、絶対プロ選手になるから心配ないって!」

 新伍はむやみやたらに爽やかに言い切ると、どうだといわんばかりに胸を張った。いったいその自信はどこからわいてくるのやら。

「……その根拠は?」
「なるといったらなるの。だから大丈夫さ!」
「つくづくお目出度いヤツだよな、お前って……」

 マッティオはあきれたように新伍を見やった。なんだこのポジティヴシンキングが服着て歩いてるような男は。もはや楽天家とか脳天気では済まされない領域に達している。今どきイタリア人だってこんなヤツいないだろう。

 まあ新伍のある意味特殊なメンタリティについてはひとまず置いておくとして、

「じゃあお前、ナターレは独りなのか?」
「そーゆーことになるかな。下の階に下宿のオバサンいるし厳密には独りじゃないけど。たまには軽〜くワビサビ入ったクリスマスも悪くないかも」
「いや、それワビサビを通り越して悲愴の領域に達してねえ?」

 マッティオはげんなりした様子でかぶりを振る。薄暗い部屋の中、独り陽気にケーキのローソクを灯している新伍の姿を連想してしまった。暗い。はてしなく暗い。暗い部屋で鬱ってるだけならごく普通のシチュエーションといえなくもないのだが、孤独にカラ明るいとなると話は別だ。むしろ病的な暗さすら感じられて怖い。

 そんな訳で柄にもなくつい仏心を出してしまった。

「――なあシンゴ。妹どもがバタバタうるせーし、姉貴たちも大学から舞い戻ってきてさらに煩いけど、それで構わないんならうちに来ないか?」
「え、ホント! いいの!? やったぁ〜!!」

 ぱっと顔を輝かせて大喜びする新伍を後目に、マッティオがぼそりとつぶやいた。

「ま、今さらうるさいチビガキが一匹増えたところでたいしたことないからな」

 実はマッティオの兄弟姉妹は姉3人、妹3人という恐るべき女性比率で構成されているのだ。家族が一堂に会するたびにかしましい姉妹に囲まれて、唯一の男児であるマッティオは肩身の狭い思いをしていたりする。

 マッティオの独り言を聞きとがめて、新伍が小鳥のようにちょこんと小首を傾げた。

「ん? なんか言った?」
「気にすんな。お前の空耳だ。――そろそろ行くか。早くしないと店が閉まっちまう」

 出がけに母からなかば強引に買い物メモを押しつけられているのだ。厄介なことは今日中に済ませておくのが吉だ。今ならまだどの店も人出は少ないはず。例年繰り広げられる24日午前の食料買い出しバトルを思い出してどっと疲れを覚えた。

 ふいにマッティオの背筋に悪寒が走った。おそるおそるふり返ってみれば、すぐ後ろにジノ・ヘルナンデスが静かに佇んでいるではないか。冬のさなかだというのに春風のように優しげな笑みをたたえているが、目がちっとも笑っていないので大変怖い。

「やあ、マッティオ。そんな所でなに話してるんだい?」

 実にさりげない言葉である。

 だがマッティオは正しく言外の含みを読みとっていた。

『やあ、マッティオ。ちょっと目を離したスキにこれかい? この俺を出し抜こうなんていい度胸だな。今の時期、アルノ川の水は冷たいよ?』

 とてもじゃないが「早めに誘っておかなかったお前が悪いんだろ!」とは口が裂けても言えない雰囲気だった。

「ジ、ジノ!? あのなこれには海よりも高く山よりも深いワケがあって……!」

 思いきり慣用句を間違えているが、当のマッティオには気づく余裕などまったくなかった。なぜなら新伍がにっこり笑って火に油を注いでくれたからである。

「あ、ジノ。聞いて聞いて! おれ、クリスマスはマッティオんちに行くんだよ!」
「そう、それはよかったね。ホントにねぇ……マッティオ?」

 ジノはシベリアの永久凍土もかくやと思われる冷徹な視線で問いかけてきた。

 このぶんでは年内確実にゴールネットで厳重に簀巻きにされたうえ、重石を付けられてアルノ川の底深く沈められかねない。

 マッティオは脳細胞をフル回転させて生き延びるための次善策をひねり出した。

「に、24日の夕食はうちで、25日の昼食はジノの家に行くってのはどーだ!?」
「うん。それが無難な案だと思うね。……俺にとってもお前にとってもな」

 ジノの緑色の瞳は『今日の所はこの辺にしといてやるが、次はないぞ』と冷ややかに告げていた。少なくともマッティオはそう了解した。

 ジノは先ほどとはうって変わった穏やかな表情で新伍に向き直る。

「シンゴもそれでいいかい?」
「うん、おれはぜんぜん構わないよ! 二人の家に行くなんてすっごく楽しそうだ!」
「そーか。オレはなんだか今から気が遠くなってきたけどな……」

 マッティオは暗澹たる思いで答えると、大きなため息をついた。




>あとがき

友杉影子さんへの捧げ物小説。
インテルトリオのユニオーレス時代の話です。
欧州のクリスマスは家族と過ごすものだそうで。日本の正月か。
てことはツリー=門松、クリスマスカード=年賀状の図式が成り立つ……のかも?

12月24日午前中のミラノは地元民の食料買い出し部隊でごった返してるそーです。
午後になると一転して閑散として観光客しかいなくなるんだとか。

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