トリノまで何マイル? 2 2006.09.19

 深夜近くのバス停アッピアーノ・ジェンティーレは闇と静寂に包まれていた。

 聞こえるのはただ風にそよぐ草の音と虫の声。当然、人の気配なんてまるでない。とはいえこの辺りは、真昼でもさほど人通りの多い場所ではないのだが。

 マッティオは星の瞬く夜空を見上げ、大きくため息をついた。

 ここから星明かりを頼りにピネティーナ(インテル練習場)まで歩かねばならない。眼前に広がる暗闇を見晴るかす。鄙びた田舎道がはるか彼方まで続いている。道はいつ果てるともなく、前途は嫌になるほど遼遠だ。

 マッティオは力なくうなだれ、もう一度大きなため息をつく。

 少し先を歩く新伍が足を止めてふり向いた。

「おーい、なにボケーっとしてんだよ。早く行こうぜ早く!」
「ったく勘弁してくれよな……スタミナ無尽蔵のお前と違ってオレは疲れてんだよ!」

 新伍に怒鳴り返して、移動に次ぐ移動を余儀なくされた一日をしみじみと思い返す。

 午後の練習を終えたあとロマッツォ駅まで猛ダッシュ、日本の時刻表ミステリのアリバイ工作めいたきわどい間隔で列車を乗り継ぎ、ミラノ市内にたどり着くやいなや息つく間もなく高速鉄道に飛び乗ってトリノに向かい、紙一重のタイミングでトラムを乗り継いでやっとコムナーレ(ユベントス練習場)に到着。

 帰りはこのルートをそのまま逆走。もはや急ぐ必要もないのにチョコマカと走り回る新伍の後を追って、トリノ―ミラノ間をせわしなく全力疾走させられたのもいい思い出……なわけがない。

 はっきりいって炎天下のスタジアムで90分間戦い抜き、延長戦までもつれ込んだあと、さらにPK戦に突入するよりも体力的にキツかった。

 いや、これほどの疲労感を覚えるに至ったのは無茶な遠距離移動のためだけじゃない。

 ジェンティーレに勝負を挑もうとフェンスに飛びついた新伍を取り押さえ、そのままコムナーレから引きずり出した時点で、マッティオの気力と体力はほぼ底をついていた。

 その時の騒動を思いだして、マッティオはうんざりしたように肩をすくめた。

「お前なあ。いくら頭にきたからってヨソの練習場に乱入すんなよ」
「だって許せないだろ! おれはちゃんとあいつの名前書いてやってんのにさ! なんであいつは無記名なんだよっ!?」
「なんかそれ、怒りの論点ズレてないか? オレは練習人形に『打倒! ジェンティーレ』なんて貼ってるお前のがよっぽど失礼だと思うぜ」

 マッティオの言う「人形」とは例の新伍がこしらえたフェイント練習用ダミー人形のことである。腹のあたりに「打倒! ジェンティーレ」と書かれた紙が貼ってあるのだ。

「それはともかく。まさかジェンティーレまであんな練習してるとはなあ」

 人気のないスタジアムで一人居残り、新伍のものと寸分違わぬダミー人形相手にディフェンス練習するジェンティーレを目撃して、マッティオは顎が外れるぐらい驚いた。

 思わず新伍とジェンティーレを指さし、「バカが二人いる!」と叫びそうになったのはここだけの秘密だ。

「あのスカした野郎がねぇ。マジ驚いたぜ」

 マッティオは心の中でこっそり続けた。

 遠く離れた場所で同時多発的にあんなけったいな練習法を考えつくあたり、この二人、ある意味似たもの同士なんではなかろうか。

 もしかしてジェンティーレの奴、今でこそ紳士を気取っちゃいるが、昔は新伍と五十歩百歩の考える前に走り出す脊髄反射型プレイヤーだったとか? 一度走り出したら止まらないノンストップ青信号のリベロかよ。すごすぎるぜ。傑作だ。

 そう考えるとあいつがわざわざ途中出場して新伍をボコったあげく、やれダンディだのカルチョは紳士のスポーツだの余計なお世話の説教までやらかした説明もつく。忘れたはずの自分の忌まわしい過去がピッチを所狭しと駆け回ってるのを目の当たりにして、さすがの紳士サマも恥ずかしさのあまりいてもたってもいられなかったんだろう。

 その時のジェンティーレの心情を想像して、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。

 そんなマッティオを見て新伍が不思議そうにたずねた。

「なに一人でニヤけてんだマッティオ?」
「え? いや、なんでもないって!」

 マッティオはあわてて頭を振って適当に誤魔化した。

 お前とジェンティーレって実は似たもの同士の近親憎悪な間柄? なんて口にしたが最後、間違いなく新伍はブチ切れるだろう。口は災いの元、沈黙は金だ。

 新伍はどうも腑に落ちないといった風に小首を傾げて、

「そうか? おれにはマッティオがすごく必死に見えるんだけど」
「な、なに言ってんだお前。ほらほら、急がないと日付が変わっちまうぜ!」

 マッティオは露骨に話題を変えると新伍に背を向けた。これ以上の追求を避けるために全力で走り出す。星明かりの下、足下もおぼつかない薄暗い農道を疾走するにしては少しばかり非常識なスピードで。案の定、いくらも進まないうちに障害物につまづいて盛大にこけた。

「だあぁぁ〜ッ!? なんで道の真ん中に石なんか転がってんだよ!?」

 したたか打った向こうずねをさすりながら愚痴っていると、

「やれやれ。大丈夫かい」
「おう、ありがとよ……ってお前誰……?」

 マッティオは目の前に差し出された手を取って立ち上がり、いぶかしげに視線を向けた。その瞬間、呼吸が止まりそうになる。

 暗闇の中にぽっかり浮かんだ白いモノ。それはほのかな光にライトアップされた薄気味悪い生首だった。

「ギャ〜〜!? バケモノ〜〜〜!?」
「――化け物だって? 言ってくれるね、マッティオ」

 ジノはムッとした口調でそう言うと、きびすを返して逃げ出そうとするマッティオの襟首をひっつかみ、強引に引き戻した。

「まったく。こんな夜更けにわざわざ迎えに来てやった親切なトモダチに向かって、その言い草はないんじゃないか?」
「うるさい! 顔の下から懐中電灯をブキミに照らして、暗い夜道で待ち伏せするよーな奴がなに抜かしやがる!?」
「待ち伏せ? ははは。なんのことだかよくわからないな」

 ジノは柔らかな笑みを浮かべてしれっとのたまった。あいかわらずツラの皮が厚いったらありゃしない。もしや道に石を置いたのもジノの仕業なのでは?

 マッティオがジノに問いただそうとしたその時、後ろから新伍が走ってきた。

「おーい、大丈夫かマッティオ? ってジノ? お前らなにしてんの?」
「やあ、お帰りシンゴ。トリノはどうだった?」
「さりげなく話をすり替えるな! だいたいお前はいつもふざけた態度で………!」

 言葉なかばにマッティオの腹が盛大に鳴った。

 ジノと新伍のもの問いたげな視線がマッティオに集まる。

 四時過ぎにミラノを出て以来なにも食べていないのだから当然と言えば当然だ。その間口にしたものといえば、行きと帰りの列車内で飲んだ世にもマズいエスプレッソのみ。あれのせいで空腹にさらに拍車がかかったような気がする。

 とはいえ気恥ずかしいシチュエーションには変わりない。マッティオが無言でそっぽを向いていると、ジノがまったりと言った。

「のびきったパスタと冷めた牡蠣フライなら食堂に残ってるよ。二人前」
「なんだよソレは!? もっとマシな晩飯はねえのかっ!?」
「残念ながらなんにも。リゾットも確保してあったんだけど、ちょっと目を離したスキにフランコが鍋の底までこそげて平らげてしまってね」
「あ、あのヤロー、ふざけた真似しやがって!」

 許せん。明日の朝一番で絶対シメてやる。マッティオが食い意地の張ったチームメイトへの報復を心に固く誓ったところで、

「なあマッティオ」

 新伍がマッティオの服の裾を引いて言った。

「おれは冷めたパスタも牡蠣フライも結構好きだぞ」
「あのなあ、そりゃお前がなに食ったって“なんでもウマイ”ってトンデモ味覚だからだ!」
「でもさ。こんな夜中に食い物が残ってるだけツイてるじゃないか」

 心底そう思っているような天真爛漫な顔でのたまう。

「悪いことなんてそう続くもんじゃないさ。もしかして具はないし冷めきってるかもしれないけど、スープだって残ってるかもしれないだろ?」
「そんなだしガラスープが残ってて本当に嬉しいのかお前は――!?」
「うん。おれは嬉しいけど。すっごく」

 新伍は無邪気にうなずいた。

 マッティオは天を仰いだ。究極のプラス思考&楽天家にあれこれ説いてもムダなのだ。たとえ身ひとつで無人島に漂着したとしても、新伍はすぐにケロリとした顔で軽やかに歩きだしてスローライフをエンジョイするに違いない。

 ジノが口を挟んだ。

「ああそうだ、シンゴ。練習場のことだけど、監督に届けておいたからいつでも使えるよ」
「よっしゃあ、気合い入れてがんばるぞ――!」
「というわけだ。わかったな、マッティオ」

 突然話を振られたマッティオが目を瞬く。

「はぁ? なに言ってんだお前?」
「ダミー人形相手じゃいまいち臨場感がないだろ。代わりにマッティオがジェンティーレ役をやればいいじゃないか」
「んだと!? 自慢じゃねえがオレは今まで一度もDFなんてやったことねえんだぞ!? ていうか今何時だと思ってんだ! 真夜中だぞ真夜中! ただでさえ腹減って疲れてんのにそんな面倒くさいことやってられるかこのボケ!?」
「なあに心配ない。俺が後ろで指示出すからマッティオでも十分務まるって」

 ジノが涼しい顔で言った。

「FWがディフェンスを学ぶのも案外悪くないそうだよ。アヤックスの叶がそう言ってた」
「あんな規格外ワールドクラスのオレンジ頭を引き合いに出すな!!」

 人としてあり得ない驚異的なスタミナでFWとDFを両方同時にこなす非常識の権化、いわばトータルフットボールの化身ともいうべき化け物ストライカーと一緒にされてはたまらない。

 マッティオは頑として拒絶する構えを取った。戦略的撤退、ようするにテレビゲームで言うところの「にげる」を選択したわけだ。だがしかし敵もさる者、

「ありがとう、マッティオ! よぉし、がんばるぞ〜! もう少しであいつを抜く技のヒントがつかめそうなんだ!」

 新伍が明朗快活を絵に描いたような笑顔で退路に回り込んできた。断られることなど端から念頭にないといった様子で追撃する。

「もちろん協力してくれるよな?」
「大丈夫、マッティオはわかってくれるさ。……なあ、マッティオ?」

 新伍は疑うことを知らない子犬のような眼差しで、ジノは穏やかにして有無を言わせぬ視線でマッティオを見据えた。あまりのプレッシャーに言葉に詰まる。

 最初からマッティオに拒否権などないのだ。チェックメイト。もはや逃げ場はない。

 マッティオはガックリ肩を落として大きく息を吐くと、投げやりな気持ちで怒鳴った。

「わかったよ、やりゃーいいんだろやりゃあ! でも頼むからその前に、のびたパスタと冷めた牡蠣フライでいいからなんか食わせてくれ!」




>あとがき

トリノまで何マイル?の続編。
いちおう無事帰還できたようです。イタリアの列車運行状況から鑑みて奇跡的に。

走り出したら止まらないノンストップ青信号リベロ。
そのせいでジェンティーレはJrユース時代のイタリア代表に選出されず……。
……だったら笑えます。すっごく。

フェイント練習ですが、むしろ新伍がDF練習やってみるのも悪くないかも。
「DFを経験することでDFの心理を読めるようになったんだ!」ってどこの叶恭介だ。
これが「GKを経験することで〜」だったらどこの翼だ以下同文。

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