トリノまで何マイル? 2006.09.05

「おーい、シンゴ。そろそろ上がろうぜ」

 返事のかわりに大きなため息が返ってきた。

 新伍はボールの上に腰を下ろして呆けたようにぼんやりうつむいている。

 その横に立つ怪しげな空手練習用ダミー人形まがいの物体に目をやると、マッティオは呆れたようにかぶりを振った。

「ったく、まーだウダウダ悩んでんのか」
「まあ、それだけシンゴにとってはショックだったんだろうさ」

 通りすがりの用具係カリメロが口を挟んだ。

 マッティオはダミー人形の胴体部分の貼り紙に視線を落とす。日本語なのでいまいち確信は持てないのだが、たぶん「打倒! ジェンティーレ」とかなんとか書いてあるのだろう。

 サルバトーレ・ジェンティーレ。いつも陽気に脳天気な新伍がうって変わって底なし沼のように落ち込むハメになったのは、先日の試合でこのユベントス期待の超新星(らしい)DFに完膚無きまでに叩きのめされたせいだ。

「そーだな。あん時はジェンティーレのやつに使い古しのボロ雑巾みたいにズタボロにやられちまったもんなーハハハ……いてっ、いきなりなにすんだシンゴ!?」

 思いきり顔面めがけてボールをぶつけられて、マッティオが声を荒らげる。

 しかし再び鬱モードに逆戻りした新伍はひたすらうつむいたままだ。

 いつも太陽のようにカラ明るい奴がよくもまあここまで落ち込んだもんだぜ。マッティオは軽く肩をすくめた。しかたない。まずはカリメロの後ろ姿が用具室に消えていくのを見届ける。さらに周囲を見回し、自分と新伍以外の誰もいないことを確認してからようやく切り出した。

「素直に認めろよ。今のお前じゃあいつに勝てない」

 あいかわらず答えがない。いや、答える気がないだけか。

「ピッチでプレイしてるのはお前ひとりじゃない。なんのためにオレたちがいると思ってんだ。一対一の対決なんかにこだわらず、みんなで協力しあえばいいだろ」

 一昔前の少年マンガみたいな青臭いフレーズだなと思いつつも、マッティオはいちおう正論をぶってみた。どうも調子が狂うのだ。似合わないシリアス顔で延々とたそがれている新伍を見ていると。

「イヤだ! おれはどうしても真っ向勝負であいつに勝ちたいんだ!」
「お前なぁ、せっかくこのオレがこっぱずかしい思いしてすげえ感動的なセリフ吐いてんのに、その態度はないだろーが?」
「勝つったら勝つんだ! 絶対にぜったいに!」

 マッティオに背を向けたまま頑として言い張る。普段はさほど物事にこだわらない新伍だが、いったんこうと心に決めたらテコでも動かないので非常に扱いに困る。

「ったく、この意地っ張りが……サッカーは独りよがりのプレイじゃ勝てないだろ。ボールとひとつになって、11人の仲間の心がひとつになって勝利がつかめるんだ」
「なにその大昔のサッカーアニメ」
「お前……なんか最近ジノ化してねえ? セリフがいちいち陰険……」
「へえ。言ってくれるじゃないか、マッティオ」

 不意に飛び込んできたおだやかな声に心臓が跳ね上がる。反射的にふり向いたその先に、いま一番この場にいてほしくない人物が立っているではないか。

「ジ、ジノ!? お前いつからそこに――!?」
「マッティオが80年代学園ドラマばりの熱血演説を始めたあたりから」
「よ、よけーなお世話だこのバカ野郎!」

 茹でダコのようになって怒鳴るマッティオには取り合わず、ジノはよいしょと膝を折り、真正面から新伍の顔を見据えた。

「シンゴ。敵を知れば百戦危うからずって言うだろ」
「――ジノ」
「がむしゃらにまっすぐ突き進むのもいいけど、まずは相手の手の内を知ることが必要なんじゃないかな」

 ジノの言葉にマッティオがいぶかしげに首を傾げる。

「手の内を知るって……ああ、ビデオ見て研究しろってことか? 確かにユーベの試合録画ビデオなんて資料室に腐るほど置いてあるけどよ」

 なにげなく口にした言葉に内心青ざめる。棚一列を埋め尽くすビデオテープの山。あれを全部チェックするのは相当根気のいる作業だ。まさかオレもつき合わされるんじゃないだろうな。

 マッティオの懸念をよそに新伍が元気よく立ち上がった。

「そっか、わかったよジノ! じゃあおれ、今からちょっとトリノ行ってくる!」
「はぁ!? おいおいシンゴ。どういうことだそりゃ?」

 マッティオがあわてて聞き返す。

 まるでそこらの屋台にでも出かけるような軽い調子でトリノ行きを宣言されたら、誰だって戸惑うだろう。ミラノからトリノまで車で2時間。TAV(高速鉄道)でも1時間半はかかるのだ。そもそもここピネティーナ練習場からミラノ市内に戻るだけでも一苦労だというのに。

「だーかーら、ジェンティーレのヤツを偵察…じゃなくて観察しに行くんだってば」
「なにィ!?」
「やっぱビデオより本物見たほうが効率よさそうだろ」

 そのまま駆け出そうとする新伍をジノがやんわりと呼び止めた。

「ちょっと待ってシンゴ。マッティオもぜひ一緒に行きたいってさ」
「ジノ〜〜〜!? なにサラっと口からデマカセ吹きやがんだてめえ!?」

 いきなりのご指名にマッティオは思わず叫んでしまった。

 なぜ新伍につき合ってわざわざトリノくんだりまで出向かねばならないのだ。冗談も休み休み言え! そんなに心配ならお前が行けお前が、とジノに詰め寄ったところ、

「ホントは俺が行けたらいいんだけどね。あいにくこれからトップチームの練習に参加しなくちゃならないんだ」

 いかにも残念そうにかぶりを振ると、ジノは新伍の肩に手を置いて言った。

「もし向こうの警備員に見つかったら、マッティオをオトリにして脱出するんだよ」
「大丈夫だって! おれ、そんなヘマしないからさー!」
「お、お前らオレのことなんだと思ってやがる―――!?」

 マッティオの抗議を受けて、新伍とジノは互いに顔を見合わせた。

「なにって……おれたち親友だよな?」
「それはもう心の友と呼べるほど深く理解し合った友だちさ」

 新伍は真顔で、ジノはしれっとした顔でうなずいた。

 マッティオは握りしめたこぶしを震わせて絶叫した。

「いけしゃあしゃあと大嘘つくんじゃねえ〜〜〜!?」




>あとがき

ワールドユース編序盤あたりの話。
 トリノまで何マイル? 60プラス30マイル ローソク灯して行けるかな?
マザーグース曰く、足が十分軽くて早ければ往復可能みたいですよ。んなアホな。

はたして新伍とマッティオはユベントス練習場にたどり着けるのでしょーか。

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