人魚姫、北へ 2007.07.04

 玄関ベルが鳴った。

 自室で明日の献立に頭を悩ませていたクリスマンは訝しげに顔を上げた。

 現在時刻はPM10時47分。
 こんな夜更けに郵便屋と宅配業者もないだろう。ユース寮メンバーは全員鍵を所持しているのでベルを鳴らす必要などない。

 そんなことをぼんやり考えているうちに、またベルが鳴る。
 どうやら誰も応対に出るつもりはないらしい。
 クリスマンはため息をついて立ち上がり、玄関ホールへ急いだ。

 やたら重いオーク製の玄関扉を押し開けて、「はいは〜い、どちらさん?」とたずねたとたんその場に凍りついた。
 ぽっかり口を開けたまま、目の前の人物をまじまじと見つめる。

 なんでまたコイツがここにいるんだ?

 思考停止状態のクリスマンなどお構いなしに、

「チャーオ! おれ今ちょっと逃亡中なんだ。かくまってくれない?」

 インテルユースのシンゴ・アオイは流暢なオランダ語でにっこり笑った。





「なんだ、もう逃げてきたのか」

 クライフォートがいつもの淡々とした口調で言った。
 新伍は応接間に置かれたソファのひとつにちょこんと座ったまま、小さく肩をすくめる。

「だってさ。あの二人、どーにもこーにも手がつけられない状態なんだよなー。で、おれがいなけりゃ少しは仲良くなるかなあと思って」

 カップを両手に包み込むように持ってコーヒーを飲みながら、

「ジノもジェンティーレもさ。なにが気にくわなくてケンカばっかしてんだろ」

 クリスマンは信じがたい表情で新伍の顔を凝視した。

「……お前。それ、本気で言ってんのか?」
「うん。ってクリスマンは理由知ってるの? なら教えてよ」

 新伍はクリスマンをまっすぐ見上げた。黒い瞳には一点の曇りもない。

 クリスマンはうっ、と言葉に詰まった。
 コイツ、まさか本気でわかっていないのか?
 半信半疑のまま新伍の顔をじっと見る。

 新伍は無垢な子供のように澄んだ目をしてクリスマンの答えを待っていた。

 マジわかってねえ!? ていうか鈍いってレベルじゃないぜ。
 この時ばかりはさすがにインテルのキーパーとユーベのリベロが気の毒になった。

 かといって奴らのために差し出口を利くつもりなんかさらさら無いが。

「えっと、まあそれはともかくとしてだな! お前なんでオランダ語喋ってんの?」

 とりあえず話題をそらしてみる。
 単純な新伍はアッサリ食いついてきた。

「えへへ〜驚いた? これで勉強したんだぜ」

 足下に置いたリュックから一冊の本を引っ張り出す。
 クリスマンは差し出された本のタイトルを見て仰天した。

『サルでもわかるオランダ語会話……四週間でキミも立派なオランダ人』。

「よ、四週間? ていうかあれから二週間しか経ってねえぞ!?」

 迷子の新伍がユース寮を訪れたのは今からちょうど二週間前。
 四週間でもあり得ない速さなのに、その半分の期間でオランダ語をマスターしたというのか?

 一般向け語学関連の学習書の表紙にはたいてい“すぐわかる”だの“30日速習”といった無責任な売り文句が踊っているものだが、そんなに都合良くいかないのが世の常で。

 外国人にはやたら発音の難しいオランダ語をこうも流暢に、しかも短期間で操れるようになるなんて、奇跡としか言いようがない。

「うん。難しいよねオランダ語って。けどこないだここに来た時、みんなの会話を聞いて、発音とか文法とか大まかな感じは掴めたから。コトバってさ、どれにしたって取っかかりがつかめたら、後はフツーに楽勝ってゆーか」

 新伍は明らかに尋常でないことをサラリと言った。

 いや、それ絶対フツーじゃないだろ。
 心の中でツッコミを入れてから、クリスマンはふと気づいた。

「まさかあの時アオイがひたすら黙りこくってたのって、たんにヒアリングに集中してただけなのか……?」
「そーだけど。それがどうかした?」

 新伍はケロッとした顔で即答した。
 クリスマンの中で人魚姫のイメージが音を立てて崩れていく。

 寡黙で可憐で儚げだなんて勝手な願望入ったビジョンなのは重々承知だが、その実体がたんなる騒がしいコザルだったなんて、ちょっとショックかも。
 もしかして童話の人魚姫も喋りだしたらガックリさせられるんだろうか?

「お前はクリスマンで、そっちのドレッドヘアがカイザー、隣がレンセンブリンク。向かいがディックで暖炉脇にドールマンだろ? クライフォートの斜め前のオレンジ頭がカノー」

 いささか傷心気味のクリスマンなんか気にする様子もなく、新伍は室内のメンバーの名前をすらすら並べ立てる。

 クリスマンは驚きの声を上げた。

「お前、全員の名前も聞き取ってたのか?」
「えへへ〜スゴいだろ?」

 新伍は得意げに胸を反らす。子供のように無邪気な笑顔で。
 不覚にもやっぱりちょっとだけカワイイかもと思ってしまった。我ながら現金なものだ。

「へえ。こんなんでマスターしちまうなんて、お前小さいのに頭イイんだな。どっかのデカいだけがとりえのおバカなオレンジ頭とは大違いだぜ」

 オランダ語会話のテキストをめくりながらカイザーが言った。

「ああ。アオイの100分の1程度でいいからカノーに語学脳&耳があったなら、フィジカルコーチも病院送りにならずに済んだのにな」

 レンセンブリンクがどこか遠い目をして相づちを打つ。

「おいコラてめえら。さっきから黙って聞いてりゃ好き放題いいやがって!」

 怒りに拳を震わせつつ二人の背後にぬっと現れた叶恭介が、カイザーとレンセンブリンクの脳天にそれぞれ強烈な拳骨を喰らわせた。

 新伍はなにか面白いものに目を留めた子犬みたいに顔を上げた。
 ソファからぴょんと飛びおりて、大きな瞳に興味の色を湛えてチョコマカと恭介に近づく。

「ねえねえ。カノーって名字でしょ。名前はなんていうの?」
「へ? なんだお前いきなり。……ま、いっか。オレの名前は恭介。叶恭介だ」
「そっか〜。おれは葵新伍。ヨロシクな叶!」

 世にも脳天気な笑顔で挨拶する。
 すかさず恭介の右手を掴み、握手にしてはやや過剰な勢いでぶんぶん振り回した。

「はァ? ったく、なんか調子狂うヤツだな」

イタリアン顔負けのカラ明るいハイテンションで一方的に押しまくられて、さすがの恭介も戸惑ったように頭を掻く。

「ねえねえ。しばらくここに置いてよ。代わりになんでもするからさ」

 新伍がクライフォートに向かって朗らかに言った。

「は、早まるなアオイ!? そんなことコイツに言ったが最後、労働基準法も真っ青の過労死プログラム押しつけられて、牛馬の如くこき使われるぞ!?」
「ほう。言ってくれるじゃないか、クリスマン」

 クライフォートはクリスマンの頭を本のカドで容赦なく殴りつけると、

「そうだな。とりあえず右SHに入ってもらおうか」
「うん。練習試合ならいくらでも付き合うよ!」

 新伍は嬉しそうにうなずいた。

 練習試合だけ? 余裕で親善試合にも引っ張り出されるだろ。
 ついでに本人も気づかないうちに来期の契約書類にサインさせられていそうだ。

 なにも知らずはしゃいでいる新伍の姿に、クリスマンはそっと涙した。
 その横で恭介が首を傾げる。

「けどよ。そっちのクラブのほうは大丈夫なのか? お前一応主力なんだろ?」
「平気平気。残ってんの消化試合だけだし、マッティオがなんとかするって。たぶん」

 新伍はケラケラ笑いながらテキトーに言ってのけた。
 どうやらマッティオとやらが、インテルユースにおけるクリスマン的苦労人ポジションらしい。
 にわかに同情心がわき上がる。

 同病相憐れむ、というか傍若無人なチームメイトに面倒事を押しつけられるカナシミは、クリスマンもイヤになるほどよく知っていた。

 ふいに新伍がなにか思い出したように手を打った。

「あ、そーだ。お土産あったんだ」

 リュックの脇の紙袋から大きめの紙箱をゴソゴソと取り出した。 手慣れた仕草でラッピングをほどいて蓋を開け、恭介の鼻先に突き出す。

 恭介は怪訝そうに受け取り、視線を落とした。

「なんだこりゃ。ケーキ?」
「シンゴ・アオイ特製イチゴのトルタだよ。あ、トルタってこっちじゃタルトだっけ」
「なにィ!? マジこれお前が作ったのか!?」

 一声叫んで、驚愕の眼差しでイチゴタルトを指さす。

 ケーキ屋のショーケースに飾られているような見事な出来映えだった。
 まさに趣味の手作り菓子の領域を超えた、玄人はだしの一品。

 新伍はこっくりうなずいた。

「うん。おれの趣味、料理だから」
「もしかして和食とかも作れるのか?」
「一般的なものならたいていOKさ」

 得意なのはイタリア料理だけどね、とつけ加えてから、少し考え込む。

「和風朝食だったら炊きたてご飯にアサリの味噌汁、焼き魚に卵焼きなんかどうかな」
「なあブライアン。コイツしばらくここに置いてやっていいんじゃね?」

 恭介は手のひらを返したようにクライフォートに提案した。単細胞にも程がある。
 まあクリスマンとしても、日々の献立に頭を悩ます手間が省けるなら文句はないが。

「話が決まったところで当座の問題解決に移ろう――クリスマン」

 予期せぬ指名にクリスマンは目をぱちくりとさせる。

「は? なんだよクライフォート」
「今夜のところはお前の部屋に泊めてやれ」
「って誰をだよ……まさかアオイー!?」
「決まってるだろう。他に誰がいるというんだ」

 クライフォートはしれっとのたまった。

「ちょ、待てよ。オレの部屋はベッドひとつしかないんだぞ!?」
「ゴメン。おれ寝相悪いけど気にすんな」

 そういって新伍は朗らかに笑った。

 クリスマンは頭痛がしてきた。
 右手でこめかみを抑えながらうんざりしたようにかぶりを振る。

「お前なあ、そういう問題じゃないだろ」

 アオイとひとつのベッドで一緒に寝る。それ自体はまあ可もなく不可もなく、どっちかといえば嬉しいような気もす……るわきゃねえ! いかん、だいぶ頭が混乱しているようだ。落ち着け自分。大きく息を吐いて深呼吸……。

「落ち着けクリスマン。問題ない。お前が良からぬことを企んでいなければの話だが」

 心の裡を見透かすようにクライフォートが言った。
 クリスマンは肺の中の空気全てを一気に吐きだしてしまい、危うく窒息しかける。ゲホゴホとむせながらクライフォートに食ってかかった。

「ばばば、バカ野郎! 人聞きの悪いこと抜かすんじゃねえ――!?」
「ではなぜ慌てる?」

 冷ややかな眼差しでクリスマンを見据える。

「それとも葵にベッドを譲り渡して、お前は倉庫のカビた運動用マットで寝るほうがいいか? 設置場所は俺と恭介のベッドの間だ。そこしか空きスペースは無い」
「ちょ、おま……! しれっと真顔で恐ろしい選択肢出すんじゃねえよ!?」

 クリスマンは絶叫した。

 倉庫のマットって、あのソイソースを煮染めた色した年代物のことだよな。
 しかもクライフォートとカノーに挟まれて、大の男が三人並んで川の字状態だと――!?
 なにその生き地獄。噂に聞く、日本の体育会系クラブの夏合宿か!?

 考えるまでもなくアオイと一緒に寝る方がいいに決まってる。
 前者を地獄とすれば、こちらは間違いなく天国。
 ただしヘルナンデスとジェンティーレにバレなければの話だが。
 つい先日ユース寮に現れたヘルナンデスの様子を思い出し、背筋が寒くなった。

「さあ、どうする?」

 クライフォートは無情に選択を迫る。

 地獄のなかの地獄と天国に似た地獄。どちらを選んでも地獄に変わりはない。
 まさに究極の選択を突きつけられて、一時的にクリスマンの脳の処理能力が限界に達する。
頭の中が真っ白になった。

 白く燃え尽きたクリスマンを見て、クライフォートは呆れたように肩をすくめた。

「仕方ない。俺が葵と寝るから、お前は俺の部屋の隅の、脚が一本折れた折りたたみ寝台の上にカビたマットを敷いて休め。これで文句ないな」

 言語道断な第三の選択肢を聞いた途端、クリスマンは瞬時に正気を取り戻した。目を血走らせてクライフォートに詰め寄る。

「待てやゴラァ! お前のセリフの一字一句すべてに文句ありまくりだっつーの!」

 新伍は相変わらずなにもわかっていない様子でにこやかにうなずいた。

「うん。おれは別にそれでかまわないよ」
「アオイー!? お前もちょっとは自分の身の安全とか真剣に考えろ――!?」

 自己防衛本能ゼロのコザルを怒鳴りつけてから、腹立ち紛れにムキーっと頭を掻きむしる。

「あーもーわかったよ! アオイはオレのベッドで寝ろ。でもってオレは隣にカビたマット敷いて寝りゃいーんだろ!」
「そうか。残念だな」

 クライフォートは冗談とも本気ともつかない口調で言った。
 クリスマンは今の発言を敢えて無視した。ツッコミ入れたが最後、なにやら恐ろしいことを聞かされそうで怖い。

 新伍がニコッと笑った。

「じゃあ今晩ヨロシクな!」
「は……はは。そんじゃオレ倉庫行ってくるわ……」

 クリスマンは新伍に力なく手を振って部屋を後にした。
 がっくり肩を落として倉庫に向かう。

「どうかアオイがイタリアに戻って余計なことを喋りまくりませんように」

 廊下をとぼとぼ歩きながら祈るようにつぶやいた。


 葵新伍がどれだけ空気の読めない人間かなんて、クリスマンは知るよしもなかった。




>あとがき

前作『人魚姫』の続き。コザル北国逃亡編。
いちおうWYの後のはずなのに前回の二週間後とか、いろいろ時系列が狂ってますがあまり気にせずお読み頂けますと幸いです。

イタリア語を独学マスターする新伍ですから語学得意なんんだろーな、と思いついこんな。
イタ語が出来るとゆーことはスペイン・ポルトガル語も理解可能であって。
てことはサリナスやサンターナ、ディアスとも素で会話できるってことですね! なんかイイ。

ソイソースはいわゆる醤油です。醤油で煮染めたよーなマットレス。煮たら出汁が出そう。

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