先輩の災難 2007.01.22

 ローテーブルの上のコーヒーカップをどんより見つめながら、ファー レン フォルトは長い長いため息をついた。

 イタリアから久しぶりの里帰りだというのに見るからに浮かない顔である。意気消沈した時の様を色に喩えて「ブルーな気持ち」と称するが、現在のファー レン フォルトの心境は出がらしの番茶色。辛気くさいことおびただしい。

 ややあってゆっくり顔を上げる。向かいに座るオレンジ頭の新入りと目が合った。

「んー、なんかこの煎餅、ムチャクチャ湿気ってねえ?」

 オレンジ頭……叶恭介は固くもなければ柔らかくもない、実に微妙な歯ごたえの薄焼き煎餅をばりばりとかみ砕きながら首を傾げた。次いでファー レン フォルトとクライフォートのコーヒーカップをしげしげと見やって、

「てゆーかお前ら、湿気た煎餅をさらにふやかしてなにが楽しいんだ?」

 恭介の指摘通り、二人ともそれぞれコーヒーカップの上に蓋をするようにオランダワッフル(前述の湿気た薄焼き煎餅)を載せていた。

 クライフォートは恭介の問いなんぞ完全無視の構えで、ゆったりと盆栽雑誌をめくってる。

 しかたなくファー レン フォルトが口を開いた。

「えーと、なんていうか、これが一般的な食べ方なんだが」
「へ? そーなの? マジ変わってんな〜オランダ人ってヤツは。湿気た煎餅をさらに湿気らせてなんか意味あんのか?」

 オランダ煎餅、ではなくオランダのワッフルはコーヒーカップの上に置いて、たちのぼる湯気で間に挟んだカラメルシロップを溶かして賞味するものなのだ。恭介にそう説明しようとした矢先、クライフォートが読んでいた雑誌から視線を上げた。

「ところでファー レン フォルト先輩。妙な時期に里帰りですね。なにか問題でも?」
「え……いや、たいしたことじゃないんだが」

 ファー レン フォルトは言葉を濁しつつコーヒーカップを手に取った。今回の帰国についてはいろいろ込み入った事情があって、できればあまり口外したくない。

 クライフォートの冷ややかな視線から目をそらし、心の中で適当な言い訳をあれこれ見つくろっていると、今度は恭介がとんでもないことを言い出した。

「口に出すのがはばかられる理由ってこたぁ、やっぱ脱税かなんか?」

 不覚にもファー レン フォルトは口に含んだコーヒーを盛大に吹いてしまった。気管に入ったコーヒーにゲホゴホとむせている先輩を後目に、クライフォートはかぶりを振った。

「いや、それはない。先輩はどちらかといえばうっかり過払いして謝りに行くタイプだ」
「なんだそりゃ。マヌケにもほどがあるぜ」
「泥棒に追銭ともいうな。まあ実際、律儀に支払いを済ませてから買い物袋を店先に置き忘れてくる愉快でウカツな人だ」
「マジかよ。あんた、よくそれでイタリアで暮らしていけるなあ」

 恭介は呆れたようにファー レン フォルトをまじまじと見つめた。

「な、なんだカノー? その珍獣を見るようなマナザシは!?」

 あたかもネギを背負ったカモを見るかのごとき、好奇心と哀れみの相半ばした恭介の視線がファー レン フォルトの心にグサグサ突き刺さる。

「もしかしてユベントス解雇されたんじゃねーよな?」
「ち・が・う! おれは税金過払いの件で………あ」

 あわてて口を押さえたがもう遅い。

「さて、先輩自らが自白してくれたので一件落着」

 クライフォートがどうでもよさげにあっさり片を付けた。さらなる追撃にも余念がない。

「どうせ今日が完全休養日ってことも忘れてたんだろう。ねえ先輩?」

 まったくもってその通り。ファー レン フォルトはがっくり肩を落とした。

 ふらふらとクラブハウスなんかに足を運ばなければよかった。アムステルダムに寄ったついでに、ちょっと古巣にでも顔を出してみるかと思ったのが運の尽き。

 その結果、閑散としたホールで問題児二人組に捕まったあげく、問答無用でグラウンドに引っぱって行かれ、何時間も奇妙なカウンター攻撃の練習につき合わされるはめになるなんて、まさに想定外の珍事に他ならない。

 そもそも今オランダユースは日本遠征の真っ最中ではないのか。ファー レン フォルトは真剣な顔で二人に向き直ると、

「ていうかお前らこんなトコでサボってないでとっとと日本行ってこい!」

 先輩の気合いに反比例して、後輩二人組の返答はひたすらやる気のないものだった。

「え〜、オレ、U-22メンバーだからカンケーねえし」
「俺も恭介もトップチームの試合を抜けられないんですよ」

 恭介に続いてクライフォートも、さももっともらしい表情でのたまう。

 ファー レン フォルトは猜疑心に満ちた眼差しで両者を見据えた。

 恭介もだが、クライフォートに関してはあきらかにサボりの気配が感じられる。不本意ながらアヤックスでの付き合いが長い分、ファー レン フォルトはこの扱いにくい後輩の性格を十分すぎるほど把握していた。

「ユースチーム統括その他はクリスマンに一任しています。あの程度の相手ならあいつらだけで十分。――空気の読めないツバサ・オオゾラがひょっこり現れたら話は別ですが」

 そういってクライフォートは口の端をわずかに上げて笑った。

 ファー レン フォルトは即座に理解した――クライフォートが大空翼の登場を心から期待しているということを。

 その結果クリスマンにもたらされるであろう非情な運命に思いを馳せる。

「……あいつもあいかわらず苦労させられてるようだな」

 どうせまた失点0で3点差以上の完勝とかなんとか、無茶なノルマをクライフォートにふっかけられているんだろう。クリスマンの気苦労を思うと胸が痛んだが、反面、自分がその立場でないことに心底ほっとしたのもまた事実。

 ファー レン フォルトはなにやら後ろめたい気分で目の前のテレビリモコンを手に取り、電源を入れた。間を置かず大歓声がこだました。目に鮮やかな緑の芝が視界に飛び込んでくる。

 ピッチを縦横無尽に駆けめぐるオレンジ軍団を眺めれば、どいつもこいつも見覚えのある顔ぶればかり。どうやら日本で行われているオランダユース対全日本ユース親善試合の中継映像のようだ。

 スコアボードに目をやった恭介が囃すように口笛を吹いた。

「ほ〜、第一戦は6−0で勝ちか。クリスマンもなかなかやるじゃねーか」
「ノルマを二桁得点に設定しておくべきだったかな。12点とか」
「おいおい、それじゃあのロンゲ空手キーパーのあだ名が12点になっちまうぜ?」
「いいじゃないか。“12点”。真に選ばれた者しか名乗ることを許されない称号だ」

 クライフォートも恭介も、言いたい放題とはこのことである。なお遠い日本のどこかで境ジェファーソン公司と菊本がほぼ同時に盛大なクシャミをしたかどうかは定かではない。

 そうこうするうちに場面が変わって、疲労困憊して地に膝をつけた全日本選手を見下ろして、いかにも鼻高々&得々と語り出すクリスマンが映し出された。

『君たちが3年前、フランスの国際大会で優勝したのは知っている。だからこそ今日の試合を楽しみにしてきたのに、まったくガッカリだ』

 恭介が怪訝そうに首を傾げた。

「なんだあいつ? 電信柱に頭ぶつけて人格変換したのか?」
「いや、あれはたんなる多幸症的譫妄状態だ」
「は? なんだそりゃ?」

 あからさまに「なんのことかサッパリ?」という表情の恭介に軽く眉をひそめると、クライフォートは簡潔に説明した。

「精神的重圧から一時的に解放されて病的に気分高揚してる状態」
「だからなにから解放されて嬉しいんだよ?」
「さあな。ただの被害妄想だろう。クリスマンらしいことだ」

 ここで危うくファー レン フォルトはツッコミを入れてしまうところだった。

「そりゃ一時的にお前ら二人から解放されて大喜びなんだろ!?」

 そんなこと口にしようものなら、恭介とクライフォートの両面攻撃を受けて非常にマズイ立場に立たされるのがわかりきっていたので、大急ぎで喉元まで出かかった言葉を飲み込む。

 先輩の苦悩を知ってか知らずか、恭介は大きく膨らませたワッフルの空き袋をパンと叩き割って威勢良く言った。

「よっしゃ、休憩終了! そろそろ練習再開すっか!」

 聞き返す間もなく恭介に右腕をがしっと掴まれて、当然ながらファー レン フォルトはひどく動転した様子で叫んだ。

「なんだってぇぇ〜!? まだやるつもりなのか!? そんなの聞いてないぞ!?」
「そうですね。俺も言った覚えありません」

 すげなくそう答えたのはクライフォート。こちらもすかさずファー レン フォルトの左腕をがっちりホールドすると、そのまま恭介と二人がかりで部屋から強引に引きずり出した。

「おいコラ放せ、お前ら聞いてるのかっ!?」

 もちろん二人とも聞いてるはずがない。

 恭介は長い廊下をずんずん進みながら陽気に宣言した。

「じゃあファーレンフォルトさんよ、テンポ合うまで特訓だ!」
「先輩のゴールキックのタイミングがズレてます。もう少し努力して下さい」

 ファー レン フォルトは引きずられた体勢のまま二人を怒鳴りつけた。

「なんでおれがお前らのワケわからん秘密兵器とやらに協力しなけりゃならないんだ!?」

 もっともな意見である。以前は確かにアヤックスに所属していたとはいえ、今のファー レン フォルトはユベントスの正ゴールキーパーなのだ。練習ならアヤックスのキーパー相手に行うのがスジというものではないか?

 だがしかし。正論というものは往々にして無視されるものであり、

「……ったく、うちのキーパーは休暇中だし、ドールマンは控えキーパーと日本に行っちまったんだ。しかたねえだろ?」
「そうそう。それに先輩がアヤックスに出戻ってきたとき、すぐに使えてラクじゃないですか。今後ユベントスでなにか問題が生じないとも限らないし。……上層部の八百長疑惑とか」

 クライフォートはなに食わぬ顔で不穏当な発言をさらりと言ってのけた。昨今のきな臭いユベントス情勢から鑑みるとまったくシャレにならないというか、非常に心臓に悪い冗談である。

 苦笑いしながらファー レン フォルトがつぶやいた。

「おいおい、そんなことあるワケないだろ、ハハハ……」
「だといいですね」

 クライフォートはにこりともせずに真剣な表情で返した。




>あとがき

ファー レン フォルト先輩帰国するの話。
時期的には「最強の敵!オランダユース」のあたり。
先輩思いの後輩どもにイビられ手厚い歓迎を受けるたびに、「……ジェンティーレや日向のがまだマシだったかも」とかブツブツ愚痴ってそうです。どっちもどっちだと思いますが。

オランダワッフル(Stroopwafels)はコーヒーカップの上に置いてぬくめると美味いです。マジで。

三人で練習してるのはTNSです。
GK→MF→FWの順にボールをつなぎ、一気にゴールを狙う三秒カウンター攻撃。

そーいやユーベのあの疑惑。キャプ翼世界ではどーなってんでしょうね?

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