隣のオランダ人 2006.12.20

 クリスマンは両手に山ほど本を抱えてクライフォートにたずねた。

「おい、この本はどの棚に入れるんだ?」
「西側壁面中央、上から三段目」

 クライフォートが即座に的確な指示を出す。

「はいはい。ていうかお前も少しは手伝えよな」

 クリスマンの主張はいつものようにあっさり無視された。クライフォートはゆったりソファに腰を下ろして、分厚い古書に視線を落としたまま返事すらしない。

 そもそもこの散らかし放題の部屋の主はクライフォートではないか。ここは自ら率先して片づけるのがスジってものだろう。カノーですら作業に加わっているというのに。まあヤツは半分当事者なので当然と言えば当然なのだが。クリスマンはため息まじりにつぶやいた。

「この寮がもう少し現実的な間取りだったら良かったのになぁ」

 アヤックスユース寮は合理的かつ利便性に富んだ近代建築物にはほど遠いシロモノだった。元は19世紀に建てられた個人の邸宅であり、それを強引に改造したせいか部屋数は少なく、広さも各部屋ごとにまちまちで、実に使い勝手がよろしくない。

 おまけに叶恭介がひとり増えた時点で空き部屋はすでに無かった。そこでひとまずクライフォートの部屋に放り込むことに決定したという訳だ。

 クライフォートの部屋は書斎と応接間の壁をぶち抜いてひとつにした間取りで、クリスマン以下その他メンバーの部屋よりずっと広かった。常識的に考えて恭介の一匹や二匹、楽に収容できるはず……というのは浅はかな素人判断で、実際のところ、室内を埋め尽くす本の山をなんとかしないことには話が始まらない状態だったりする。

 クリスマンは黙々と読書に耽るクライフォートの姿にため息をついた。

 そう、クライフォートは世に言う活字中毒なのだ。大昔の難解な古文書から現代の人文・科学関連の学術論文に至る古今東西のありとあらゆる類の書物を持ち込んでは、暇さえあればせっせと読みふけっている。蔵書数はネズミ算式に日ごとふくれ上がり、今ではいつ床が抜けてもおかしくないレベルに達していた。

 クリスマンはうんざりした顔で周囲をざっと見わたし、西側の書架に一歩足を踏み出した。いや、踏み出そうとしたその瞬間、なにか奇妙に丸い物体に足下をすくわれた。

「うわっ!?」

 バナナの皮を踏んだコザルのようにつるっと盛大に滑って、背中を強打した。

「いたたた……なんなんだ一体。――ん?」

 痛む腰をさすりながら起きあがる。足下に古ぼけたサッカーボールが転がっていた。さっき踏んづけたのはこのボールだったのか。クリスマンはなにげなく拾い上げて首を傾げた。

 このボールに書かれたミミズののたくったような文字はなんだろう?

「なんだコレ。象形文字? ヒエログリフ?」

 思いつくままにテキトーに挙げてみる。あいにくクリスマンは表意文字に詳しくなかった。ためつすがめつ不可思議な文字(?)に見入っていると、恭介が肩にベッドを担いで部屋に入ってきた。

「おい、なにのんきに座り込んでんだよ。早いトコ片づけちまおうぜ」

 そう言って無造作にベッドを放り出すと、クリスマンの手にしたボールに視線を向ける。

「なんだその小汚いボール。ん、なんか書いてあんな。えーとなになに。“5ねん3くみ。叶きょう介”………んだとぉ!?」

 恭介はクリスマンからボールを奪い取り、ぐんにゃりしたミミズ文字を穴が開くほど凝視した。何度目をこすっても“5ねん3くみ。叶きょう介”としか読めない。

「なんで大昔のオレのボールがこんなトコに転がってんだよ!?」
「お前が俺に投げて寄こしたからに決まってるだろう」

 クライフォートは読んでいた本から顔を上げ、当然といった口調で答えた。読書に専念してるようでいて、二人の会話もしっかり耳に入れていたらしい。

 当然ながら恭介は面食らった表情で、

「はぁ? なに言ってんだお前」
「八年前。成田第一ターミナル出発ロビー。さあ、思い当たることはないか……恭介?」

 そう問いかけるとクライフォートは真っ向から恭介を見据えた。唐突に下の名前で呼ばれて、恭介は薄気味悪そうにクライフォートを見やる。それから一応真面目に考えてみた。

 「んー、八年前てーとアニキが中学、オレが小五の頃だよな?」とかなんとか指折り数えて記憶を辿るうちに、ふいに顔色がさっと変わる。恭介はしばらく逡巡したのち、おそるおそる目の前のクライフォートにたずねた。

「…………お前……もしかして……ブライアン? ……だったりなんかする?」
「もしかしなくてもそうに決まっている」
「なにィ!? ってマジかよ!?」
「そのうち気がつくだろうと思っていたが、“叶”を“吐”と書き間違うバカに記憶力を期待した俺がバカだったようだな。吐根シロップの親戚かお前は」

 そう言ってクライフォートはやれやれといった風にかぶりを振った。恭介は瞬間湯沸かし器のごとくいきり立ち、ボールを右手でばむばむ叩くと、

「誰がバカだ!? ……ってマジ“吐”きょう介って書いてるじゃねえか――!? と、とにかくだ! これぐらいのミス、誰だってたまにはあるモンだろ! そーだよな? クリスマン?」
「さ、さあ。あるといえばあるし、ないといえばないような……」

 クリスマンは苦しい笑顔を浮かべて適当にお茶を濁すと、すかさず話題を変えた。

「そんなことより! お前らが顔見知りだったなんてすごい偶然だよな!」

 恭介はフンと鼻を鳴らすとそっぽを向いて、

「ていうかこいつ、オレんちの隣に住んでた変なオランダ人ってだけだし」
「ああ、不幸にも隣人は選べないからな」
「んだとゴラァ!?」

 またもや会話の雲行きが怪しくなってきた。クリスマンは背中に冷や汗を流しながら二人の間に割って入り、

「で、でもお前ら、トモダチだったんだろ? もう少し落ち着いて話し合……」

 言い終わらないうちにクライフォートと恭介の両方から鋭い眼光でにらみ倒される。

 哀れクリスマンは蛇ににらまれたカエルのように固まってしまった。逃げようにも足がまったく動かない。これぞまさしく絵に描いたような危急存亡にして絶体絶命の大ピンチ。迫り来る破滅の足音にただ呆然と立ちすくみ、脳内に縁起でもない賛美歌が流れ始めたその時、頭上から淡々とした声が振ってきた。

「そんなに知りたいのなら話してやろう」

 クリスマンが「へ? 何を?」と聞き返す間もなく、クライフォートは静かに語り出した。





 ――八年前。
 成田第一ターミナル出発ロビーは搭乗手続き待ちの旅客で賑わっていた。

 俺はフライトインフォメーションボードに視線を向けながら、肩をすくめてつぶやいた。

「あいつ結局来なかったな」

 恭介のことだ。いまだにしつこく怒り狂っているのだろう。

『明日帰る!? そんなの聞いてねえぞ!?』

 俺だってオランダへの帰国を知らされたのは昨日なんだが。

 わが親ながら生活全般に関してアバウト過ぎる父は、いつも直前になって家族に転居の知らせを告げるのだ。彼の辞書に計画性という単語はないらしい。あれでよく大学教授なんぞ務めていられるものだ。いや、学者だからこそ浮世離れしたウカツ行動をしれっとやらかすのかもしれないが。

『バッキャロー、お前なんかニュージーランドでもどこでも行っちまえ!』

 俺が「あのな恭介。オランダの正式名はニュージーランドじゃない。ネザーランドだ」と訂正する暇もなく、恭介は走り去ってしまった。まあフィンランドやよみうりランドと勘違いしてないだけマシといえなくもない。われ知らずため息をついた。

 それに気づいた父が怪訝な顔で、

「どうしたブライアン。なにか心配事でもあるのか?」
「いいや別になんにも」

 誰のせいだとツッコミを入れたくなるのを抑えてそっけなく返した。

 心配事? あるに決まってる。

 成介兄さんとの勝負に最後まで勝てないまま帰国を余儀なくされたこと、江戸期の植物図譜全三十巻のうち第十四巻だけ未入手のままなこと、黒松のミニ盆栽を誤って『天地無用』シールの貼られた段ボールに梱包してしまった気がすること等々、数えだしたらきりがない。

 そうだ、書斎の壁の亀裂の補修も忘れていた。シュートミスで壁を破壊した張本人は己の非を棚に上げて「お前なんかさっさと帰っちまえ!」などとほざいて敵前逃亡する始末。どのツラ下げてそんなこと言えるのやら。その前に壁を直していけ。これだから人の話をろくすっぽ聞かないうえに都合の悪いことはコンマ1秒で忘れるようなバカは困る。もはや存在自体が理不尽の極みだ。

 ここまで考えてわれに返った。さっきから思考が堂々巡りしている。この期に及んでなぜ恭介のことなんぞグダグダ思い悩まねばならないんだ。軽い自己嫌悪に浸りながら肩を落とす。

 その時、やけに聞き覚えのある声が響いた。

「――ブライアン!」

 反射的に顔を上げた。視界に見慣れたオレンジ色の輝きをまとったボールが飛び込んでくる。当然のように俺は身を翻してスルーした。背後で物のぶつかる衝撃音と何かが倒れる音がしたが完全に無視して、

「壁は修繕したか、恭介」
「は? 壁? ……ああ、そーいやアニキがなんか直してたな」

 悪びれずにのたまう恭介の表情に反省の色などまったくない。心の中でそっと成介兄さんに合掌していると、恭介が仕切り直すように声を張り上げた。

「ンなことより、ブライアン!」

 奴らしくもなく妙に真剣な表情である。つられて俺も恭介をまっすぐ見返した。

「約束、忘れんなよ!」

 そう叫んで恭介はきびすを返して走り去った。より正確にいえば下りエスカレーターを一足とばしに駆け下りていった。

 続いて下の階から「だ、大丈夫か恭介!?」という成介兄さんの声が聞こえてくる。マヌケなことに途中でつまづいて転落したらしい。不出来な弟を持つと大変だ。ふてくされる恭介を引っ張ってここまで連れてきたのも彼なんだろう。どこまでも気苦労の絶えない人だ。

「忘れるな、だと? それはこっちのセリフだ」

 そんなことお前に言われるまでもない。俺は一度心に決めたことは必ずやり通す。そのための努力を惜しむつもりもない。

 ――でもまあそれはともかく。

 俺はすぐ後ろの床に目をやった。

 父がうつぶせ状態で安らかに失神している。その傍らにはサッカーボールが転がっていた。この状況をかいつまんで説明すれば、俺がスルーした恭介の殺人オレンジシュートが父の後頭部に炸裂したということになるだろう。

 俺はボールを拾い上げ、インフォメーションカウンターに行ってたずねた。

「すいません。空港診療所は何階ですか?」





「――というわけだ。納得したか?」

 いきなり現実に引き戻されて、クリスマンはどぎまぎしながら答えた。

「えー……まあなんとなくは理解した……ような?」

 少なくともクライフォートと恭介が、幼い頃から共に世にもはた迷惑な存在であったということはよくわかった。

 クソナマイキで横暴なチビガキ×二匹の世話係だなんて想像するだけで目眩がしてくる。恭介の兄の苦労と自分の悲惨かつ不条理な境遇を重ね合わせて、クリスマンはそっと涙した。

 クライフォートがふと思い出したように恭介にたずねた。

「そういえば成介兄さんはどうしてる?」
「アニキ? 高校卒業していきなりACミラン行って司令塔やって、欧州CL制覇して世界最優秀選手ゲットして、ついでに世界クラブ選手権も優勝してたぜ」
「ほう、あいかわらず嫌になるほど絶好調だな」

 恭介がしれっと語った内容のすさまじさに少しも動じることなく、それどころか当然といった口ぶりでクライフォートがうなずく。

 クリスマンはなかば呆然とした面もちでつぶやいた。

「あの……なんだそのバケモノ」

 さすがは恭介の兄にしてクライフォートが“兄さん”と呼ぶ人間というべきか。ただの苦労人とはひと味違うようだ。同情して損した気分になる。

 クライフォートがさらりと言った。

「バケモノというかむしろ無敵サッカー妖怪だな」
「ハハハそりゃ言い得て妙だぜ! ってヒトのアニキを妖怪呼ばわりすんな。ありゃあどっちかってぇと謎の未確認生命体だろ」
「兄をUMAに喩えるお前の言い草のほうがよっぽど問題あると思うが」

 二人とも言いたい放題である。クリスマンは思い直した。恭介の兄はやっぱり気の毒な人なのかもしれない。複雑な思いを抱えて恭介のボールに目を向ける。クライフォートの回想話に出てきた謎のフレーズを思いだした。

「そういやお前ら。なんの約束したんだ?」

 口に出すやいなや二人の鋭い眼光を真っ向から浴びてしまう。クリスマンはまたもや虎の尾を踏んでしまったようだ。頭を抱えて全面降伏の白旗を揚げる。

「ご、ごめん、おれが悪かった! もう訊かないから命だけは……!?」
「そんなに聞きたいか?」

 一瞬クライフォートになにを言われたか理解できなかった。

「……は? いま何て?」
「そのせいでお前の運命が悲惨な方向に180度転換し、後悔ばかりのみじめな人生を歩んだあげく、死の床での最後の言葉が『やっぱりあの時聞かなきゃ良かった』になっても構わないんなら話してやろう。俺が恭介と約束したのは……」
「ちょ、ちょっと待て待て待て〜〜〜!?」

 折良くドアが開かれ、レンセンブリンクがひょっこり顔を出した。

「おーい、クリスマン。なんかお前宛に届いてるぞ……ってお前らなに騒いでんの?」

 不思議そうに荒れ果てた室内を見回すと、小包を投げて寄こした。

 クリスマンは受け取って首を傾げた。

「おれに? 誰からだろ」

 送り人は記されていない。消印はミラノ。包みをほどくとミラノの老舗の名物チョコレート菓子の大箱が現れた。こんなものを送ってくるような知り合いに心当たりなど全くない。いぶかしげに包み紙を探るとカードがひらりと床に落ちた。箱と包装紙の間に挟まれていたらしい。クリスマンはなにげなく拾い上げて、

「……セイスケ・カノー?」

 カードに記された端正かつ几帳面な筆跡に目を落とす。イタリア語ではなく英語で助かった。

「えーっと、なになに……『ルート・クリスマン殿。うちの愚弟がいつもお世話になっているようだね。そのうえブライアンまでいるって聞いて驚いたよ。なんという地獄……あ、いや、君もいろいろ苦労するだろうけど、希望を捨てずに頑張って欲しい』!?」

 衝撃のあまり頭の中が真っ白になる。手の中の小さなカードが死刑宣告通知に思えた。これはもしかして恭介の兄に問題児二人を押しつけられたと解釈すべきなのだろうか。

 呆然と立ちつくすクリスマンを後目に、恭介は断りもなくちゃっかり菓子をぱくつきながら、

「なんだよ。これアニキからか」
「苦労性の仲間ができて良かったな、クリスマン」

 いけしゃあしゃあといってのけると、クライフォートはクリスマンの肩をぽんと叩いた。それを機にクリスマンは茫然自失状態から立ち直り、ミラノの方角に向かって声の限りに絶叫した。

「じょ、冗談じゃない、絶対お断りだからな〜〜〜!?」




>あとがき

隣のオランダ人。なんか変なタイトル。
文字通り恭介の隣家に住んでた変なオランダ人のことでした。
その家の名義は「クライフォート」のままなので今もお隣さんと言えなくもないですが。
つーか腐れ縁ここに極まれり。

クライフォートと恭介の「約束」についてはご想像にお任せします。

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