運河跳び 2006.12.08

「なあ、クライフォート」

 叶恭介は走りながらたずねた。

「こんな集団でドリブル全力疾走して恥ずかしくねえのか?」
「気にするな。いつものことだ」

 併走するクライフォートが息も切らさず答える。

 恭介とクライフォート、二人の走行ペースは異様なまでに速い。すでにドリブルを超えて短距離走の域に達している。この二人から三馬身ほど遅れてクリスマン、カイザー、レンセンブリンク。やや遅れてディック、最後尾がドールマンといった状態である。

 走る速度は一向に緩めないまま、恭介はさらなる質問を重ねた。

「じゃあ、たまーに見かける連中、みんなこっち指さして驚いてんのはどーゆーこった?」
「気にするな。あれは通りすがりの観光客だ」
「そーかそーか。観光客か〜、ならしょうがねえな」

 恭介はようやく納得いったという風にうなずいた。

 期せずして一連の会話を耳にしてしまったクリスマンは「聞かなきゃよかった……」と内心激しく後悔した。

「……カノー。なんでそんな説明で納得するんだお前」

 ぽつりとつぶやいて、その手にしっかり握りしめたアルミ製の棒に視線を落とす。

 観光客が驚いている理由はただひとつ。この馬鹿馬鹿しいくらい長い棒のせいなのだ。

 ざっと全長11メートル。物干し竿のほぼ四倍もの長さの棒をそれぞれ一本ずつ携えた集団がドリブル全力疾走しているのを目にしたら、誰だって困惑するだろう。他国ならば警官に職務質問されても文句言えない光景である。しかしここオランダでは少しばかり事情が違っていて。

 アルミ棒から視線を前方に戻したとたん、クリスマンの顔色が変わった。

「うわっ!? 急に立ち止まるなカノー!?」
「しかたねえだろ。行き止まりだ」

 恭介は突進してくるクリスマンを紙一重でひょいっとかわして、草地をゆったりと流れる運河を身振りで示した。目視できる範囲内に橋らしきものは見あたらない。運河の縁ぎりぎりにつんのめって倒れたクリスマンを後目に、恭介は肩をすくめてクライフォートに訊いた。

「――で、こっからどーすんだ?」
「簡単なことだ。跳べばいい」
「はぁ!? なに言ってんだお前?」

 あからさまに当惑した面もちでクライフォートを見据える。目の前の運河は比較的川幅が狭いとはいえ、少なく見積もって十メートルはあるだろう。これをどうやって跳び越えるというのだ。

 クライフォートは呆れたように恭介を見やると、

「叶。その棒はなんのために持ってるんだ?」
「知らねーよ。出がけに投げて寄こしたのはお前だろーが」

 クリスマンがとりなすように口を挟んだ。

「えーと、カノー。この棒で向こう岸に跳ぶんだ」
「ああ、これ幅跳びの棒か。だったら先にそう言えよ」

 ようやく合点がいったように恭介がうなずく。

「けどこの棒、やけに長すぎやしないか?」
「フィーエルヤッペン用なんだから当たり前じゃないか」

 聞き慣れない単語に恭介が首を傾げるのを見て、クリスマンは仕方なく説明した。

 オランダは海抜が低いため、国土のいたるところに運河や水路が走っている。移動の際いちいち橋まで迂回していたら日が暮れてしまうのだ。

 日々の生活の便宜上、いつしか人々は橋のない場所を棒で跳び越えて行き来するようになっていった。この生活習慣を競技化したものがフィーエルヤッペンである。なるべく高位置を保ってジャンプするのが飛距離を伸ばすコツなので、使用する棒は極めて長い。

「まずは棒を水路の砂利に刺して、踏み切った瞬間、棒に飛びついて……」
「見た方が分かりやすいだろう」

 クリスマンの説明を遮り、クライフォートは水際に突き立てた棒に寄りかかって一休みしているレオン・ディックに近づいた。

「ディック、靴ひもがほどけてるぞ」
「あ、いけね。緩すぎたか」

 ディックが靴ひもに手を伸ばそうと身をかがめる。クライフォートは勢いよく地面を蹴った。

 無情にもディックの背中を踏み台にして軽やかに跳び上がり、砂利に刺した棒の頂点に手を掛けるや、あざやかな身のこなしで空中反転。反動で一気に向こう岸まで跳び、難なく完璧な着地を決める。ほんの一呼吸の間の凶行だった。

 車に轢かれたカエルのようにひしゃげたディックの背中にくっきりついた足跡を眺めながら、レンセンブリンクがおそるおそるたずねた。

「だ、大丈夫か、ディック?」
「大丈夫なわけねえッ! てかクライフォート! てめえ、なんてことしやがんだ!?」

 背中の痛みを堪えて上半身を起こし、向こう岸のクライフォートに怒声を浴びせるディックはさておき、晴れ晴れとした顔で恭介が言った。

「なーるほど。スカイラブハリケーンやれってか! よっしゃ納得したぜ!」
「いや、だから違うんだカノー。あんなんじゃなくもっと普通に……」

 クリスマンの声など耳に入らぬ様子で、恭介は間合いを計るように少し後ずさる。鋭い目つきで前方を見据えてアルミ棒を構え直し、運河めがけて駆け出した。実に恭介らしい異常なまでの加速力であっという間にトップスピードに達すると、

「おい、ディック。そこ動くんじゃねーぞ!」
「カノー!? お前いったいなにを………!? ぐわっ!?」

 恭介は遠慮会釈もなくディックの頭を踏み台にして高々とジャンプした。握りしめたアルミ棒がこれ以上ないくらい大きくたわむ。

「どぉりやあぁぁぁ―――!!」

 莫大な運動エネルギーが重力の位置エネルギーに総変換された瞬間、気合いの入りまくったかけ声とともに棒を放す。恭介は人間魚雷の如き猛スピードで向こう岸に立つクライフォートのはるか頭上を跳び越えていき、ついに視界から消え失せてしまった。

 クリスマンはいわゆる「なにィ!?」状態で口をあんぐり開けたまま、

「カ、カノー!? あいつ、どこまで跳んでいったんだ!?」
「――なあ。今、なんかすげえ水音しなかったか?」

 同じくカイザーが呆然とした様子でレンセンブリンクと顔を見合わせる。

 クリスマンはあわてて運河に駆け寄った。先の二人に比べて独創性には欠けるが常識的な跳び方で向こう岸に渡ると、手持ちぶさたな様子で草地に佇むクライフォートに詰問口調で問い質す。

「おい、クライフォート! カノーはどうしたんだ!?」

 クライフォートはどうでもよさげに身振りで示した。

 つられて目を向けたクリスマンの息が止まりそうになる。少し先の牧場を流れる水路の中程から、にょっきり二本の足が突き出しているではないか。

 クリスマンは大急ぎで水路に飛び込んで叫んだ。

「おーいカノー、生きてるか!?」

 その声に応えるように恭介の足がじたばた動いた。頭から川底に突っこんだ割にやたら元気そうだ。さすがに身体の頑丈さがとりえなだけのことはある。

 クリスマンは恭介の両足をつかんで川底から引き抜こうとしたが、よほど深くめり込んでいるのか、どうもうまくいかない。

 水路の縁からクライフォートが淡々と言った。

「運河跳びの醍醐味のひとつは魚の気分に浸ることだ。問題ない」
「そんな悠長なこと言ってないでお前も引き抜くの手伝え!」

 ついカッとなってクリスマンは怒鳴ってしまった。

 クライフォートが手を貸してくれることなんて万に一つもある訳がないことくらい、他の誰よりも身に染みてわかってはいたのだが。カイザーやレンセンブリンクたちも遠巻きに眺めるだけで、手伝いに来る気配はまったくない。

 クリスマンは大きなため息を吐くと、恭介の足にロープをゆわえて、向こうの牧場でのんびり草を食んでいる牛に引っ張らせる案を真剣に検討し始めた。




>あとがき

オランダの奇妙な競技Fierljeppen。
なぜ跳ぶのか。そこに運河があるからだ。
……かどうか知りませんが、橋まで迂回するなんて惰弱な策は取らず、運河を強引に跳び越えるのがオランダ人だそうで。

いくらなんでもスカイラブハリケーン方式で跳びはしないでしょうけど。

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