午後三時の争奪戦 2006.08.30

 叶恭介は殺気を帯びた猛獣の目で獲物を見据え、声の限りに絶叫した。

「スキありぃ―――!! うおりゃぁぁぁ〜〜〜!」

 午後三時、くつろぎのコーヒーブレイクの場を震撼させる荒野の雄叫びに、恭介の左横に座るレオン・ディックが思わず腰を浮かせた。

 ほんの一瞬のディフェンスのスキを見計らい、恭介のフォークがうなりを上げて襲来する。狙いあやまたずディックのケーキ皿に載ったアップルタルトをぐっさり突き刺し、返しざまに自分の皿めがけて勢いよく投げ入れた。

「カノー!? なにしやがんだこの〜〜〜!?」

 当然のようにディックは怒った。茶菓子をかすめ盗られて喜ぶバカはそうはいない。

 クライフォートは読んでいる雑誌から目も上げず、

「ライオンに狙われた兎がタルトをガードできず肉離れを起こすか? 警戒が足りないんだろ」

 どこかの国の代表監督めいた皮肉な物言いで切って捨てた。十八番の他人事モード全開だ。恭介もなにをどう勘違いしたものか勝ち誇ったように胸を反らす。

「そーだ。取られたほうがマヌケなんだっつーの」

 火に油を注がれていきり立つディックとふてぶてしく笑う恭介。にらみ合う両者の間に熾烈な戦いの火花が飛び散ったその時、レンセンブリンクが窓の外を指さして叫んだ。

「あ、空飛ぶチャンバ!」
「なにィ!?」

 恭介とディック、それにドールマンまで驚きの声をハモらせて窓の方へ視線を向けた。この瞬間、ケーキ皿は全くの無防備状態となった。千載一遇のチャンスを見逃さず、真横からカイザーが全力で飛び込んでくる。

「いっただき〜!」

 カイザーは陽気なかけ声を放ち、恭介とドールマンの皿から素早くタルトをかすめ取った。相手の虚を突く見事なコンビプレイだ。

 恭介はカイザーを怒鳴りつけた。

「おい、カイザー! フザけた真似しやがって!?」
「てめえらはカンケーねえだろ!」

 ディックも援護射撃とばかりにこぶしを震わせて叫ぶ。こんな時だけやけに気の合う二人だった。次いでその左横のドールマンも腹に据えかねた様子で立ち上がった。

「ていうかなんでおれのぶんまで……!?」

 じつにもっともな意見である。恭介とディックの茶菓子争いにドールマンはなんら関与していないのだから。だがしかし。正論というものはとかく無視されがちなのが世の常であって、

「取られたほうがマヌケなんじゃなかったっけ〜?」

 カイザーはドールマンのもっともな意見を軽くスルーした。追い打ちをかけるようにレンセンブリンクがあきれ顔で肩をすくめる。

「カノーのガードも大概甘いが、それ以上に問題なのがディックとドールマン。お前らのディフェンス能力、ザルにも程があるんじゃないか?」

 それでもお前ら鉄壁コンビ? とFWコンビに鼻で笑われてしまったディックとドールマンは当然として、怒りの沸点が極めて低い恭介までそろって逆上した。CF・DF・GKの三人組とFW二人組がテーブルを隔てて激しくにらみ合う。

 まさしく一触即発、場外大乱闘の気配がいや増すなか、さすがにこれはまずいと判断したクリスマンが必死の仲裁に入った。

「みんな落ち着け! タルトのひとつやふたつで何を熱くなってるんだ!」

 恭介は不敵な笑みを浮かべてクリスマンの頭上を指さした。

「そういうてめえの頭に載っかってるモンはなんなんだよ?」
「え、ええ!? だってここ、超危険地帯じゃないか!」

 恭介の指摘通り、クリスマンは自分のケーキ皿を頭に載せて全力でガードしていた。

 普通ならぽろっと床に落っことしそうなものだが、不思議に絶妙のバランスでしぶとくキープし続けている。さすがにクライフォートには及ばないが、いちおうこれでもアヤックスユースのナンバー2ミッドフィールダーを張ってるだけのことはある。

「クライフォート! こういう場を収めるのはそもそもお前の役目だろ!」

 藁にすがる思いでクリスマンはクライフォートに視線をやった。

 クライフォートはさっきと同じように『楽しい盆栽 9月増刊号』を読みふけったまま、じつに悠然とコーヒーカップを口元に運びつつ、もう一方のフォークを持った手で器用にプラムタルトの中のプラムをほじくり出していた。どうやらプラムがお気に召さない様子、ではなくてクリスマンの声なんかまるで耳に入ってないようだ。

 いっけん無防備にも見えるがさにあらず。ケーキ皿の周囲30センチはクライフォートの完全な制空圏と化しており、他者のつけいる隙などまったくなかった。その上で優雅な無関心を決め込んでいる。この場の悶着にケリをつけるつもりは端から無く、いつものようにクリスマンに押しつける心づもりとみた。

 非常に不本意極まりないがこの運命から逃れる術はない。クリスマンは盛大なため息をつくと恭介に向き直った。

「そもそもカノー。お前なんで他人の茶菓子を強奪したんだ?」
「取られたもんは取り返す。決まってんだろーが!」
「はあ? 取られたって? なにを?」

 鼻息荒く答える恭介に、クリスマンが怪訝な顔で問い返す。

「誰かがオレのタルトかすめ取ったんだよ! オレがちょっとトイレに行ったスキにな!」

 恭介の魂の叫びがこだました。室内は水を打ったような静けさに包まれる。

 ややあってクライフォートがゆったりと顔を上げ、さらりとのたまった。

「ライオンに狙われた兎がタルトをガードせずトイレに走るか? 警戒が足りないんだろ」
「ったく、しかたねーだろ。朝昼晩と午後三時、ごていねいに練習の合間まで、腹がコーヒーでダボダボになるくれぇ飲まされてんだからよ!」

 恭介がむすっとした表情で言い返す。さすがの恭介も自然の呼び声には抗えないようだ。クライフォートは奇妙なモノでも見るような眼差しで、

「なるほど。それは不自由な体質だな」
「お前らオランダ人が異常なんだっつーの!」

 こいつらときたら朝から晩まで飽きもせずコーヒーばっか飲みやがって、と地団駄踏みながらつけ加える。日本人の恭介にはまったくもって理解不能な話であるが、聞くところによるとオランダではコーヒーが切れたら暴動が起きるらしい。異文化間のギャップとはかくも深いものである。

「なるほど、そういうことか」

 クライフォートは納得したようにうなずくと、

「叶。俺はプラムタルトが嫌いなんだ」
「はァ? いきなりなに言ってんだお前」

 なんの前触れもなく直角フェイント並みに方向転換した話題についていけず、恭介は眉をひそめる。クライフォートは淡々と言葉を続けた。

「だからお前のアップルタルトを拝借した」
「なにィ!?」
「お前、急に席を立っただろ。腹でも壊したと思ったんだ。悪かったな」
「クライフォート〜!? てめえよくもヌケヌケと〜〜!!」

 悪いと言いつつぜんぜん誠意のない取って付けた謝罪に、恭介の怒りメーターは一気に振り切れた。ものすごい形相でクライフォートに詰め寄る。

 クライフォートは恭介の怒りなど気にも留めずに、

「クリスマン」
「な、なんだよ突然。クライフォート?」

 いきなり話を振られて驚いたクリスマンが声を上ずらせる。その一瞬のスキが勝敗の分かれ目だった。クライフォートのフォークが稲妻のように銀色の軌跡を描いて旋回するや、クリスマンの頭上の皿は空になった。

「なっ…なにすんだクライフォート〜!?」

 クリスマンの異議申し立てなどもちろん無視して、クライフォートはかすめ取った手つかずのタルトを恭介の皿に放り込んだ。

「これで文句はないな、叶」
「ったく、しかたねえなー。ま、今日のトコは勘弁しといてやるぜ」

 偉そうに言い放つと恭介はさっさと自分の席に戻った。手段はどうであれ、自分の取り分をしっかり確保できたら満足らしい。

 カイザーとレンセンブリンクはがっくり落ち込んだクリスマンに目をやり、所在なさげに肩をすくめると、それぞれ奪取したタルトを本来の持ち主たちに返還した。こうして場外乱闘の危機は回避され、とりあえず全てもとの鞘に収まった。


 今日もまた貧乏くじを引かされてしまったクリスマン以外は。




>あとがき

オランダのタルト。Linburgvraai (リンブルフフラーイ)って正式名称があるようですが、文字数が長いのでタルトです、はい。リンゴやプラムやチェリーなど季節の果物を入れた焼き菓子で、オランダ南東リンブルフ州の名物だとかなんとか。


← 戻る