■ 実戦! オランダ語 | 2006.08.15 |
クリスマンはアヤックス練習場の最奥部にある建物を仰ぎ見た。鋼鉄製の門扉にはでかでかと『第二外国語研修センター』と刻まれたプレートが掲げられている。 一見してごく普通のありふれた体育館なのだがどうも気になるのだ。漠然とした不安というかなんというか、ただ建物の外観を眺めているだけで胸騒ぎがしてならない。 この奇妙な感覚はなんなのだろう。クリスマンが眉間にシワを寄せつつ腕組みして考え込んでいると、後ろからレンセンブリンクの声がした。 「あれ、クリスマン。なにしてんだそんなトコで」 「いや、ちょっと気になってな」 肩をすくめて曖昧に答える。 レンセンブリンクはふいに思い出したように手を打った。 「ああ、そーいやカノーがここで猛特訓してるんだっけ、オランダ語」 叶恭介がこの建物に消えてからほぼ二週間が過ぎていた。その間、寮にもクラブハウスにも一切連絡がない。こちらからの電話も繋がらない。なにか想像を絶する緊急事態が生じたと考えざるを得なかった。 こういう場合、ただちにキャプテンが様子を見に赴くべきなのだが、あいにくブライアン・クライフォートという男は天才的なゲームメイク能力だけでなく、日常のささいな厄介ごとを問答無用で他人に押しつける才能にも恵まれていた。 かくていつもの通り、キャプテン代理のクリスマンが派遣されることになったという訳だ。 鬱々とした回想からクリスマンを現実に引き戻したのは、突如わき起こった『キエェェェ―!!』というどこぞの若堂流空手キーパーを連想させる甲高い雄叫びだった。大地を揺るがす大音響がサラウンドで響き渡る。 『W杯に行く前に試合が終わっちまうぞ、アホが!』 『うるせー! ちょいと足が滑っただけだぜ!!』 クリスマンとレンセンブリンクは思わず顔を見合わせた。 「な、なんだ今の絶叫は」 「ここ……外国語研修センター……だよな?」 「なあ、クリスマン。さっきの声、なんかすごく聞き覚えがあるんだけど」 「言うな! 気のせいだ!!」 クリスマンの必死の現実逃避もむなしく、さらなる怒号が響いた。 『立て! アヤックス所属員は許可なく死ぬことを許されない!』 『こ、このクソ野郎がぁぁぁ〜〜〜!!!』 間髪を入れず『どぉりやあぁぁぁ―――!!』という地獄の底から響いてくるような鬼気迫るかけ声とともに、鉄格子のはまった窓の隙間からまばゆいオレンジ色の光の奔流があふれ出した。 「な、なんだあの輝きは!?」 「さ、さあ………?」 次いで弾道ミサイル着弾時を思わせる、耳をつんざく轟音がとどろく。 クリスマンとレンセンブリンクは反射的にその場に身を伏せて耳をふさいだ。スポーツバッグを防災頭巾のように頭から引っ被った変な格好のまま、レンセンブリンクが内ポケットから器用に携帯電話を引っ張り出して、 「なあ、やっぱ警察に通報したほうがいいかな?」 「いや、これはもう王立保安隊を呼ぶべき事態なんじゃないかと!」 同じくボールバッグを被ったクリスマンが異議を申し立てる。あれこれ言い合っているうちに、今度は遠くからけたたましいサイレンが近づいてきた。間を置かず救急車が研修センター前に滑り込んでくる。 言葉もなく呆然と見守る二人の前を、あわただしく救急隊員が通り過ぎていった。 それから数十秒経過。さっきの救急隊員が担架とともに飛び出してきた。あれよあれよという間に救急車に飛び乗り、凄まじい勢いで急発進、アウトバーンの速度無制限区間をぶっ飛ばすスピードで一目散に走り去った。緊急車両とはいえ一般道で時速200キロオーバーはムチャしすぎではなかろうか。少なくとも交通機動隊に検挙されても文句は言えない。 クリスマンは誰に言うともなくぽつりとつぶやいた。 「いま担架に乗ってたヤツ、もしかして……」 「ああ、ウチのクラブのフィジカルコーチだった……よな?」 レンセンブリンクが聞き返した途端、研修センターの扉が豪快に開かれた。驚きのあまり心臓が止まりそうになる。気が進まないながらも二人がおそるおそるふり向くと、 「よぉ! お前ら。ンなトコでなにやってんだ」 「カ、カノー〜〜〜!?」 クリスマンとレンセンブリンクの声が同時にこだまする。 二人の視線の先には、あちこち擦り傷だらけで少々くたびれた感じだが、いつも以上にむやみやたらと元気そうな叶恭介が立っていた。 「お、お前こそ今までなにを……? ていうか喋ってる!? オランダ語――!?」 「おう、日常会話くれぇならバッチリだぜ。驚いたか? ふはははは――!」 恭介は絶句するクリスマンの前で大いばりで胸を張った。 「そ、そんなバカな。バカバカなカノーが2週間かそこらでオランダ語マスターするなんてバカな話、あるわけないじゃないか、バカバカしいにも程があるぜ!」 「てめえ〜! 続けざまにヒトをバカバカ言うなこのバカ!」 レンセンブリンクの後頭部に怒りの鉄拳を炸裂させると、恭介はむくれた顔でそっぽを向いて言った。 「ったく、やっとこさあの気に食わねえハー○マン軍曹みてぇな語学教官ぶっ倒して清々しい気分だったのによぉ!」 「カノー……」 なんとなくわかった気がした。第二外国語研修センターの語学教育がどんなものであるか。 『頭で理解できないヤツには身体に脊髄反射でたたき込め』 クリスマンは仕事熱心なあまり華々しい殉職を遂げた……いや病院送りにされてしまったフィジカルコーチに心の中で黙祷した。 >あとがき 語学は習うより身体で覚えろ。 小石先生とミューラーの聖闘士じみた山ごもり修行の語学版です。 ブラジル人留学生ロドリゴより国語の成績が悪い恭介が短期間で外国語、それもオランダ語をマスターするにはもうこれしか手段が……。 ← 戻る |