芋名月 2010.10.31


江戸城西の丸御殿には月見やぐらと呼ばれる建物がある。
五重やぐら、つまり五層六階の高層建築物で、高さだけなら本丸天守に勝るとも劣らない。
江戸で最も天に近い場所で月を愛でようという趣向なのだろう。
確かにこのやぐらから仰ぎ見る月は皓々と美しい。

座敷の外側は廻り縁になっている。東面の縁側に供物台が置かれ、芋に栗、ススキといった月見の供え物が所狭しと並んでいる。三方の上には異様に大きい月見団子の山。

そんな風流な席でクライフォートは顔も上げず、月明かりで本を読みふけっていた。
ぼんやり無目的に月を眺めるより、その光量を利用して読書する方がずっと合理的だ、とでも考えていそうな顔つきで。

隣で葵が人目もはばからず大あくびする。

「あーもー退屈タイクツ、たーいーくーつ〜!」

いつもの友禅の小袖の上に、さらに豪華な蜜柑色の打掛を重ねた姿は、まさに城の姫君そのものだが、いかんせん立ち居振る舞いがぞんざいに過ぎる。
そのせいか打掛の柄の杵を持って跳ねる月兎が、不老長寿の霊薬を練る聖獣ではなく、米問屋を襲う暴れウサギに見えて仕方ない。鳥獣戯画よろしく蛙も加わればさぞや賑やかだろう。

クライフォートは本から顔も上げず、どうでもよさげに言った。

「退屈なら月でも見てろ」
「もう飽きた〜つまんなーい!」
「それなら月のウサギの数でも数えてろ」
「もう数えたよ。十一匹で二組いる〜」

どうやら今夜の月ウサギは蹴鞠のミニゲームに興じているらしい。
クライフォートのあからさまにうわの空の返事に業を煮やし、葵が声を荒らげる。

「もーそんな本いつまで読んでんのよ。ってこっち向きなさいよー!」

尻尾の毛を逆立ててニャーニャーわめく古狸の孫を、ちらっと横目で見やる。
この和漢三才図会・巻第三十八によれば、ネコは家狸でタヌキは野猫か。言い得て妙だな。
そんなことを考えていたら、葵が目じりをつり上げてこちらをにらんでいる。

「ちょっとあんた。そのカビくさい古本とあたしのどっちが大事なの !?」
「そうだな。僅差でお前ということにしといてやるか」
「ウキー! なによその言いぐさはー !? そこは圧倒的大差であたしに決まってんでしょ!」

葵はクライフォートの言葉を額面通り受け取ったので、当然ながらブチ切れた。
まあ予想通りの反応ではある。
自分にとって本よりも大事なものなど己の魂くらいだ。なんといっても死んだら本が読めない。
それほどに重要な位置づけである本の上に、僅差とはいえ葵を置くあたり、我ながら重要事項の優先順位が狂ったものだとつくづく思う。

そんなこっちの事情なんか少しも気づいてないようだがな。
裏山の暴れザルみたいに顔を赤くして、地団駄踏んで悔しがっている葵に肩をすくめる。本を閉じて傍らに置き、静かに口を開いた。

「おい、そこの暴れザル」
「なんですってえぇぇぇ〜誰がサルよ誰が〜 !?」

激怒して詰め寄ってきた葵の顔をまっすぐ見据える。

「な、なによあんた。急にマジメな顔しちゃって……?」

クライフォートの予想外の反応にどぎまぎした様子で問い返した。
この機を逃さず葵の腕を掴んで引き寄せると、

「すまない。俺が悪かった」
「………はぁ?」

葵はぽかんと口を開けたまま固まった。
およそあり得ないセリフを聞かされて、脳の配線がショートしたらしい。
まあそれは計算済みだ。
ほっそりとした身体を抱き寄せ、ゆっくりと顔を近づけて深く口づける。

「んっ……」

葵はしばらく呆然となすがままにされていたが、なかば無意識に細い腕を伸ばしてクライフォートの背中に回し、次第にその舌の動きに応えるようになっていく。

最初の頃など慣れない行為に動転してか、はたまた不器用なだけかは知らないが、うまく鼻で呼吸ができず、まるで全力疾走した直後みたいに肩で息をしていたが。
どんな粗忽者でも、数をこなせばそこそこ技量が上がるものだな。

妙な感慨を覚えつつ唇を離すと、熱っぽく潤んだ瞳と目が合った。
仄かな月明かりに垂らされて、黒い大きな瞳も長い睫毛も、そして横分けに二つ束ねた黒髪もすべて輝く銀色に染まり、うっとりするほど美しい。
葵は上目遣いに訊いてきた。

「ねえ。あんた、あたしのこと好き?」
「俺は好きでもない女を抱くほど暇じゃないが」
「えへへ〜あたしもあんたが、だーいすきよ!」

心の底から嬉しそうに言う。
満月を背に、真夏の陽光みたいに眩しい笑顔で。

クライフォートはそれを満足げに眺めると、その場に葵を押し倒した。
畳敷きの部屋というのは、ベッドへ移動する手間が省けて非常に合理的だ。
浅く深く何度も口づけを繰り返す傍ら、片手で細帯をほどいていると、ふと気づいた。
階下からトコトコ、ドタドタと軽やかだが落ち着きのない足音が聞こえてくる。

謎の足音の主は階段を上りきると、東面の縁側に向かって同じ調子で歩いていく。
いやに聞き覚えがある小さな足音。

薄闇のなかでクライフォートは軽くため息をついた。
あれ一匹ならひたすら無視するという手もあるが、そう容易くことが運ぶとは思えない。
なんせここは江戸城内。無粋な闖入者が一人で済むわけがないからだ。

もう一度、今度は深いため息をついて、葵の身体の上からゆっくり身を起こす。
縁側を物憂げに見やり、月見の供物台の前でごそごそ動く小さな人影をみとめると、おもむろに口を開いた。

「おい、そこの団子泥棒」
「ほへ? なんか言った義兄上〜?」

団子泥棒の子ザルが脳天気に振り返った。
両手にそれぞれひとつずつ、赤子の頭ほどもある巨大な月見団子を持っている。
こいつは葵の弟で名を新伍という。歳は数えで八つ、だったか。よく覚えてないがどうでもいい。本名は竹千代だが、本人が「新伍と呼べ」とうるさいので、内輪では新伍ということになっている。

葵も起きあがり、ひょっこり現れた弟を不思議そうに眺めた。

「あら新伍。あんた、なんでこんなトコにいるの?」

葵の言うように、世継ぎのバカ君は今、本丸御殿の月見の宴に出席しているはずなのだが。

「だってさあ〜いつまでたってもご飯出ないんだもん。お腹すいたー」

口いっぱいに月見団子を頬張って新伍が言う。
このがっつき具合からして、小腹が空いた程度の空腹ではなさそうだ。
空腹を抱え、空腹に耐え、ひたすら月を見る。なにやら禅寺の修行のようだな。

「この国の月見の宴とやらは断食行の婉曲表現なのか?」

クライフォートの疑問に新伍が答えるよりも先に、涼やかな声が割って入った。

「いいえ。たんに御台様と春日が、またくだらない口論を始めただけよ」

急勾配の階段をしずしずと上ってきたのは、葵の姉の由起姫である。
鴇色の小袖に茜の打掛。艶やかな黒髪を左耳の上あたりで一つに束ねている。
葵とうり二つの顔立ちで、並んで立つと双子のように見える。
淑やかで凛とした佇まいの姫のほうが姉で、尻尾二本の暴れ家タヌキが妹だ。

「む〜、あんたまたなんかシツレーなこと考えてない?」
「いいや、それはお前の気のせいだ」

さすが野ダヌキのカンは鋭いなと感心しつつ、葵の疑惑の視線を軽く受け流す。
由起姫が呆れた風に肩をすくめた。

「本当にくだらない。月見団子の種類なんてどちらでも構わないじゃない」

彼女の話によれば、現在本丸御殿の宴の席では、月見団子を巡る熾烈な争いが繰り広げられているらしい。月見団子には上方風と江戸風の二通りあって、御台は上方風、春日は江戸風の団子にすべしと双方頑として譲らない。二人とも、ことが決着するまで、なんぴとたりとも料理に箸を付けること許さじと息巻いているのだとか。

どうせ団子は口実だろう。
新伍の実母と乳母の不仲は今に始まったことではなく、年がら年中、よくもまあそんなと思うようなくだらないことで相争っているのだ。周囲の者には迷惑この上ない。

「だよね〜。母上と春日の団子って、どっちもちょーマズいじゃん。オレの作ったこの月見団子のがずーっと美味しいよ」

早くも三つ目の団子に手を出しながら新伍がうなずいた。
手ずから自ら月見団子をこしらえ、それを前もって西の丸の月見やぐらに用意しておくなんて、最初から本丸の宴を抜け出す心づもりをしていたに決まっている。

「そーだ。向こうにオレの団子届けてあげよっかな」
「そうね。お二人の団子よりもっと美味い団子ですよと、一筆したためましょう」

弟の邪気のない提案に、由起姫が花もほころぶ笑顔で懐紙を取り出した。

「で、誰が持ってく? ヒマそーだし八代洲でいっか」

仕上げに葵が無邪気な残酷さで適当に指名する。

「十中八九、八つ裂きにされるだろうな。別にどうでもいいが」
「そっか〜じゃあ築山お願い」

なぜ今ここで築山なんだ、と問い返す暇もなく、背後から打てば響くような声が返ってきた。

「わかりました。手が空きましたらただちに」

振り返るとすぐ後ろに築山がひっそりと佇んでいた。
左手に五段重ねの重箱を提げ、右手にひのきの飯びつを抱えている。足下には酒の一斗樽。
この女が気配も見せず音もなく現れるのはいつものことだが、それにしてもこれだけの大荷物をどうやって一人で運び入れたのやら。

「織田の小娘ごときが面倒かけてくれますこと」

クライフォートの脇を通り過ぎる際、築山がぼそりと小声で呟いた。

織田の小娘とはもしや御台所のことか。
築山のあからさまに見下したような物言いに首をひねっていると、またもや階段からどたどた騒々しい足音が聞こえてきた。

「いやはやまったくひどい目に遭ったもんじゃ」

頭を掻き掻きタヌキ爺が顔を出す。こいつも本丸御殿の宴から抜け出してきたのか。
クライフォートは冷ややかな視線で出迎えた。

「これは大御所様。団子の匂いにつられてフラフラやって来たんですか」
「相変わらず毒を吐きおるの。関ヶ原の退き口もかくやの難所を辛くも逃げのびたこの老体に、いたわりの言葉のひとつやふたつ掛けたところでバチは当たらんじゃろうに」

どうせなら御台・春日の本陣に特攻して玉砕すれば良かったのに。
そう言いたいのをぐっとこらえ、大御所に向き直る。

「年寄りの夜更かしは身体に毒ですよ。老い先短いとは到底思えませんが、まあ念のため」
「なんじゃ其の方、今宵はやけに機嫌が悪いのう」

大御所は気を悪くした風もなく、にたりと笑った。

「さては葵と二人いちゃついておるところを邪魔されて怒ったか」

黙れタヌキジジイ。

「うん! もぉ、すーっごく仲良くしてたよ! わーい芋煮だ〜!」

築山の持参した重箱の前にちゃっかり座り込んで、新伍が大はしゃぎする。
余計なことを言うな子ザル。

「あらあら。じゃあわたしたち、お邪魔だったかしら。ごめんなさいね」

新伍の小皿に芋煮を取り分けてやりながら、由起姫が微笑んだ。
本当にすまないと思うならさっさと退出してくれ。そこのタヌキ爺と子ザルをつれて。

「では其の方らは遠慮無く子作りに励んでくれ。わしらは勝手にそこらで月見しとるから」

大御所はぬけぬけと言い、杯を呷った。
こみ上げる怒りをこらえて、クライフォートは大御所をにらみつける。
が、さすが天下の古狸。泰然自若に涼しい顔で受け流す。

ああ、本気で一発殴り飛ばしてやりたい。こんな気持ちになったのは久しぶりだ。
思わず拳を固めたが、内心の葛藤をどうにか抑え、クライフォートは大きなため息をついた。

仕方ない。今日は諦めるか。
淡々と気持ちを切り替えて、クライフォートは縁側に出た。
廻り縁の手摺り越しにオレンジがかった満月をぼんやり眺める。
月の表面の模様が、葵の打掛のウサギが飛び跳ねる柄と妙に重なって見え、少し笑った。

はっきりいって、これほど真面目に月を見上げたのは初めてだ。
オランダ本国で満月をありがたがる者など魔女と狼男くらいのものである。
だが、大御所の駄弁につきあわされるくらいなら、月見の方が余程マシだろう。月は人に無理難題をふっかけてきたり、読書の邪魔をしたりしないからな。

と、その時、何かが左腕にぴょんとしがみついてきた。

「ほえ〜キレイだねーお月さま〜」

葵は月から視線を移すとクライフォートに笑いかける。
笑顔は掛け値なしにたいそう愛らしい。
つい今しがた、箸でつまんだ里芋をつるりと取り落とし、薄暗い畳の上をはい回って「あたしのお芋さんどこ〜」と大騒ぎしていた女と同一人物とは思えない。というか思いたくない。

「月を見るのは飽きたんじゃないのか」
「ううん、すっごく楽しいよ!」

頭を左右にぶんぶん振る。

「だーいすきなあんたと一緒なら、なんだって楽しいもん」

葵は心底嬉しそうに言った。
つくづく単純な奴だと思ったが、その笑顔を見ていると妙に愛おしさがこみ上げてくる。
らしくもない心境に呆れつつ、クライフォートは決意した。
こうなったらなんとしても後ろの邪魔な連中をこの場から追い出してやる、と。



>あとがき

芋名月=中秋の名月のこと。つまり大幅に時期遅れ更新ってワケだ。うん。

江戸時代の月見団子は直径10センチ。でかすぎる。しかも1セット15個也。
江戸は丸形、上方は里芋型。うちの近所は里芋型。



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