狸蕎麦 2010.05.12


麻布は狸穴坂の下に蕎麦の屋台がある。
すでに日もとっぷり暮れ、辺りを行き交う人もない。同業者の屋台ならとうに店じまいしている頃だろう。こんな時間まで営業を続けるとは、ここの蕎麦屋の親父も酔狂なことだ。

「こんな夜更けに蕎麦なんぞすすっておると、ほれ、例の怪談を思い出すのぅ」

屋台の長い腰掛けの左端に腰を据え、蕎麦の残り汁をぐいっと飲み干して大御所が言った。
空のどんぶりを親父に突き出し、追加の蕎麦を頼むとおもむろに語り出す。

「とある冬の夜のことじゃ。寒風吹きすさぶなか、ひとりの男が家路を急いでおると、すぐ先に見慣れぬ蕎麦の担ぎ屋台を見つけた。これ幸いと立ち寄ったが肝心の主人がおらん。行灯も消さずに遠出はなかろうし、じきに戻るだろう。そう考え、男は待つことにした。が、待てど暮らせど主人は戻ってこない。いい加減しびれを切らした男は蕎麦をあきらめ帰宅したのじゃが、ほどなくして男の家に凶事があったという」

「後日その男の自宅に法外な蕎麦代の請求書でも送られてきたんですか?」

腰掛けの右端に座したクライフォートは顔も上げず、どうでもよさげにたずねた。

「なんじゃその風情のない物言いは。妖怪の世界でもぼったくりが横行しておったら傑作よの。――ふむ、ではこれはどうじゃ、本所に“灯りなし蕎麦”なる怪異があっての」
「灯りなし蕎麦も消えずの行灯も送り提灯も間に合ってます」

にべもなく返す。このままだらだらと本所七不思議を語られてはたまらない。

「えーオレもっと聞きたいよ〜。だって城の怪談もう飽きちゃった」

新伍が会話に割り込んできた。大御所の右隣に腰掛けて、地面に届かぬ足をぶらぶらさせている。常に騒々しいこいつが今まで無言を貫いていたのは、たんに意地汚い天竺ネズミのごとく蕎麦を口いっぱい頬張っていて、喋ることもままならぬ状態だっただけのこと。

弟同様いやしんぼの天竺ネズミ状態を脱した葵も、こっくりうなずいた。葵の席は新伍の右隣、つまりクライフォートの左隣だ。

「そうねえ。水のかわりに井戸から血が涌いたり、たまに天守から血まみれの死骸が降ってくる程度だもんね。つまんな〜い。もっと血湧き肉躍る熱い話が聞きたいよね!」
「それだけ血湧き肉躍っていれば十分だろう」

江戸の七不思議は地域ごとに数あれど、最凶のミステリースポットを冠するにふさわしい場所といえば、やはり江戸城をおいて他にない。

「はいは〜い、たぬきそば一丁お待ち〜だなも」

タヌキ顔の親父が屋台の奥から身を乗り出し、どんぶり鉢を大御所の前に置いた。

「うむ。たぬ吉は仕事が速くてなによりじゃ」

このタヌキ顔の親父の名はたぬ吉というらしい。
名は体を表すというが、これほどシンクロ率が高いのも珍しい。大御所の気安い口ぶりからして馴染み客なんだろう。ちょくちょく西の丸を抜け出してはタヌキ親父の店に行き、熱々の蕎麦に舌鼓を打つタヌキ爺の姿が瞼に浮かんだ。

豆タヌキと小娘タヌキ、もとい新伍と葵も元気よく手を挙げた。

「あ、オレもお代わりもう一杯」
「あたしもー」
「はいは〜い承知したんだなも」

最初耳にしたときも思ったが、何度聞いても妙な語尾だ。生国は尾張か、はたまたタヌキの国か。そんなことをつらつら考えていたらたぬ吉と目が合った。

「紅毛の旦那はなんにするんだなも?」
「いや、俺はもう結構だ」

さっき出された蕎麦の揚げ玉のせいで胃が重いのだ。蕎麦の上にこんもりそびえ立つ揚げ玉は枯山水の砂山でも見立てているのか。あれはもはやたぬき蕎麦じゃない。揚げ玉蕎麦と改名したらよかろう。

「もー遠慮しないでいいんだなも。なんでも言って欲しいんだなも」

しつこく迫るたぬ吉にうんざりして、つい魔が差したんだろう。

「ではムール貝の白ワイン蒸しを貰おうか」

我ながらつまらんことを言ったもんだが、たぬ吉はいっこうに動じる気配がない。よっこらしょとしゃがみ込み、なにやら屋台の台の下でごそごそやっている。
なにをしてるんだこのタヌキ親父。
いぶかしげに眉をひそめていると、たぬ吉がぴょこんと立ち上がった。

「はいは〜い。ムール貝の白ワイン蒸し一丁お待ち〜だなも」

あいかわらず緊張感のない声で、湯気のたつ土鍋をクライフォートの前に置く。
土鍋のふたを取ると、中にはつやつやと黒光りするムール貝が芋を洗うような混み方で、ぎっしり隙間なく詰め込まれていた。

「なん……だと?」

そんなバカなと思いつつ味見すれば、確かにこれはムール貝の白ワイン蒸しである。

あらためてたぬ吉に目をやった。
木綿の着物に紺の前掛けタヌキ腹の、どこにでもいそうな屋台の親父だ。実を言えばたまにたぬ吉と直立二足歩行の巨大タヌキがだぶって見えるのだが、大御所も葵も新伍もまるで気にする様子がないので、今さら声高に指摘するのも気が引ける。自分の見間違いや幻覚であればなおさらだ。

それはさておきクライフォートは思案した。
目の前の親父が人間かタヌキかはこの際どうでもいい。タヌキとて職業選択の自由があるだろう。下手な人間よりもまっとうな料理を供するのであれば、問題などあろうはずもない。

「ひとつ訊くが、他国の料理も頼めるのか。たとえばミラノやフランスあたりのものを」
「あーそれはムリだなも。紅毛の旦那は阿蘭陀国の人だから、阿蘭陀の献立しか無理」
「なるほど。そういうことか」

つまりここの注文システムはそれぞれの出身地に応じて供されるものらしい。
ならば同郷の八代洲を連れてきたところで意味はない。
三浦は論外だ。悪名高きイングランド料理なんぞまっぴら御免こうむる。塩辛く生臭いだけの茹で鱈、茹ですぎてグズグズに煮くずれた味も素っ気もない野菜が出てくるに決まっている。

うっかりイングランドの悲惨きわまる食卓を想像してげんなりしていると、ふと脳裏に商売敵のスペイン商館員が思い浮かんだ。スペイン料理は悪くないのだが。
ジノ・フェルナンデス。
冗談じゃない。あの男を呼ぶくらいならイングランド料理のほうがまだマシだ。

クライフォートが不機嫌そうに顔を上げると、ムール貝の土鍋が忽然と消え失せていた。
そこへにぎやかな会話が耳を打つ。

「見たことない変な貝だけど美味しいね〜。そこのおっきいのもーらい、っと」
「もーやめてよ姉上、それオレの〜!」
「むうる貝か。ふむ。こちら風だとあさりの酒蒸しかの」

ちゃっかり土鍋を自分たちの方へたぐり寄せ、鍋パーティーでもしているかのように楽しげにムール貝を賞味する葵たちを見ていると、どっと疲れがこみ上げてきた。
裏返した土鍋のふたには食べ終えた貝の殻が山と積み上がっている。
ちょっと待て。それは俺のだろう?

こちらの非難がましい視線に気づいたのか、葵がひょいと顔を上げて口をとがらせた。

「むー、ぜんぜん足りない。もっとないの?」

口元に人参のかけらをくっつけたまま、新伍が満面の笑みで言う。

「あ、義兄上〜! これすっごくおいしーねっ!」

仕上げに大御所が鷹揚だが命令口調でのたまった。

「次の荷でむうる貝を少し持ってきてくれんか。佃島あたりに撒いたら増えるかもしれん」

人の皿を断りなく丸ごとかすめ取っておきながら、なんら恥じることなき面の皮の厚さは、さすが天下人とその孫たちといたく感心させられた、わけは無論ない。

「……言いたいことはそれだけか」
「ほえ? あんたのものはあたしのもので、あたしのものはあんたのものでしょ?」

ムール貝のワイン蒸し強奪の件に関する葵の回答は実にシンプルかつ強引だった。
したり顔で大御所が言う。

「なら言うが、老い先短いこのわしに、そろそろ可愛いひ孫の顔を見せてもらえんかのぉ」
「どうせなら男がいいなー。そしたらオレ、念願の蹴鞠修行の旅に出るんだ!」

殺しても死なないしぶといタヌキ爺のくせに、こんな時だけ年寄りぶるな。
世継ぎの孫タヌキも、自分の面倒を丸ごと俺の息子に押しつける前提で夢を語るな。

そもそも俺と葵が一緒になったのはついこの間だぞ。その手の話を振るのは十月十日過ぎてからにしてくれ。いいや過ぎても振るな。うっとうしい。
心底うんざりしていると、たぬ吉が出来たての蕎麦を持ってきた。

「はいはーい、たぬきそば追加お待ち〜だなも」

揚げ玉の香ばしくも油くさい臭いが辺りに漂う。
三杯のたぬき蕎麦それぞれに三つの揚げ玉山がそびえ立つあんばいだ。
胸焼けがいよいよ酷くなってきたが、大御所と新伍は顔色も変えず、さも美味そうにせっせと箸を動かしている。こいつらの胃は鉄か何かで出来ているのだろうか。

葵は身じろぎひとつせず固まっている。
箸を手にしたまま、真顔でたぬき蕎麦のどんぶりとにらめっこしているのが妙におかしい。
ややあって蕎麦から目を離し、クライフォートの顔をじっと見た。あたかも清水の舞台から飛び降りるべきか否かを算段しているような表情で。

「むー、あんたのものはあたしのもので、あたしのものはあんたのものだったわよねえ……」

どうやらさきほどの発言から、蕎麦を俺に譲るべきかどうか葛藤しているようだ。
俺としては無論、己の言ったことに責任を持て、などと言う気は毛頭無い。
いくらなんでもこれ以上の揚げ玉は願い下げだ。

「俺のものはお前のもので、お前のものが俺のものなんだろう。ではもう一度チェス盤……いや碁盤をひっくり返して、俺のものをお前のものにすればいい」
「ほ…ほえ? ややこしくて意味わかんないよぅ」

葵は途方に暮れた目でこちらを見上げる。

「お前の理解など端から期待してないから安心しろ。いいからさっさと食え。蕎麦がのびる」
「ええっ、いいの !? わーいありがとー、ぶらいあん! だーいすきっ!」

厚い雲の切れ間からぱっと日の光が差し込んだみたいに笑う。
呆れるほど胸の内がすぐに顔に出る性分だ。
人目もはばからぬ体当たりの感情表現を面白いと感じ始めたのは、さていつの頃だったか。
破天荒で騒がしいのもまた一興。いわゆる非の打ち所のない女など退屈なだけだ。

クライフォートにとって退屈こそ最も忌むべきものだった。

大はしゃぎで蕎麦にやたら七味をふりまくる葵を眺めていたら、新伍の頭越しに大御所と目が合った。にんまり含み笑うタヌキ面がしゃくに障る。なんだその、わしはなんでもお見通しじゃといわんばかりの目つきは。

むざむざとタヌキ爺の思惑になど乗るものかと思いつつ、それもまた一興と考えていたりもする己の心境にほとほとあきれ果て、クライフォートは軽く肩をすくめた。


後日クライフォートは“狸穴坂のたぬき蕎麦”なる怪談を耳にすることになる。



>あとがき

深夜の妖怪屋台で蕎麦をすする大江戸セレブ+紅毛人の話。
不幸にもフツーの町人が目撃したら肝を潰して逃げ出すレベルの怪しさです。
クライフォートと犬猿の仲のスペイン商館員フェルナンデス氏がもうじき出る…はず。



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