義兄上 | 2009.06.19 |
八代洲屋敷には二間続きの大きな座敷がある。北の縁側に面していて明るすぎず暗すぎず、北向きゆえに強い日差しの心配もない。まさに書籍の収納にうってつけの場所だった。それで今はクライフォートに書斎兼書庫として使われている。 この座敷でいつものようにクライフォートが文机に向かい、先日入手した古い巻物を紐解いていると、突然背後から何者かに勢いよく飛びつかれた。 「義兄上義兄上〜あ〜に〜う〜え〜!」 「放せ。首が絞まる」 クライフォートは振り向きもせず冷ややかに言った。 背中の小動物はそっけない態度にめげることなく、首にぶらさがったままさらに言いつのる。 「ねえねえ義兄上、庭で蹴鞠しょうよ〜!」 「断る」 「こーんないい天気に屋敷に引きこもってないで遊ぼうよ〜!」 クライフォートはため息をついて顔を上げた。 首だけ動かして肩越しに背後を見やると、年の頃は七、八つほどのいかにも武家の若様風の少年が、夜道でいきなりおぶさってくる妖怪のようにしがみついている。小柄な少年とはいえ首の一点に全体重を掛けられると苦しい。 「竹千代。首から離れろ。話はそれからだ」 「もー義兄上ってば、城の外じゃオレの名前は新伍だよ〜新伍!」 相変わらず首にぶらさがったまま、竹千代改め新伍は脳天気な顔で主張した。 見た目は可愛らしいが騙されてはいけない。 なんせこいつは葵の弟なのだ。 歳と男女の違いはあれど新伍の顔立ちは姉とうり二つ。性格のほうもすこぶる似ている。行き当たりばったり出たとこ勝負のお気楽者だ。 葵がクライフォートのもとに身を寄せてから、弟のこいつも頻繁に八代洲屋敷にやって来るようになった。むろん西の丸御殿を抜け出してのことであるのは言うまでもない。あそこの警備陣はとことんザルらしい。 「ホントはさあ〜“オレは天下の風来坊、徳田新之助”ってカッコよく名乗りたかったんだけど、そっちは爺ちゃんに取られちゃってざーんねん」 爺ちゃんとは言わずと知れた大御所のことである。忍びで江戸市中をほっつき歩く際の偽名だろうが、タヌキ爺のくせに年甲斐もなく天下の風来坊などと称するのは如何なものか。 「とにかく俺は忙しい。お前はそこらの本でも読んでろ」 「わかった。じゃあ待ってる」 新伍は意外と素直にうなずいて、クライフォートの背中からぴょんと飛び降りた。 むろんクライフォートは蹴鞠なんぞにつき合う気などさらさらない。八代洲が城から戻り次第、即行で新伍の世話を押しつけるつもりだ。 そうとは知らず新伍は無邪気な顔で見上げた。 「ねえねえ義兄上、蹴鞠番付の今月号ある?」 「向こうの隅を適当に探してみろ」 昨日の夕刻、叶恭介が寝転がってそれを読んでいたから、たぶんまだそこにあるだろう。 あいつは持参した本を必ず置き忘れて帰るのだ。塵も積もれば山となるというが、本も同じでうずたかく積み上がり、今や叶恭介コーナーが出来そうな勢いである。 いい加減全部まとめて隣の火消屋敷に投げ込んでやろうか。 本の山を前にしてあれこれ品定めしている新伍の後ろ姿を眺めながら、そんなことをなかば真剣に思案していたが、運び出す算段をするうちに面倒になってきた。 別に急がずとも次に恭介が現れたら持って帰らせればいいと思い直し、再び文机に向き直った。中断していた古文書の読解に取りかかる。 少しして後ろから元気の良い声が聞こえてきた。 「むかしむかし、あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは畑に――」 横目で様子を窺うと、ちんまりと正座した新伍が小冊子を広げて熱心に読んでいる。赤い表紙と内容からして御伽草子の類だろう。蹴鞠番付が見つからなかったか、それとも――。 「お婆さんは、タヌキの調理に、取りかかりました」 この抑揚のない一本調子の音読はなんとかならないものか。 論語の素読を聞かされているような気分になってくる。 いわゆる『子曰(し、のたまわく〜)』というアレだ。 「タヌキは、お婆さんを叩きころして、鍋のなかで、ぐつぐつ煮こみました」 なんだと? 思わず振り返って新伍を見据える。 「帰ってきたお爺さんも、タヌキにころされてしまいました。爺婆汁になりました」 クライフォートの視線に気づかぬ様子で、新伍は見事な一本調子で続けた。 なんだそのイングランドのナンセンス残酷童謡みたいな話は。 「――新伍。なにを読んでいるんだ?」 クライフォートは新伍から本を取り上げて表紙を見た。 『大江戸タヌキ囃子の謎』 どうやら残酷童謡ではなく三文ミステリ捕物帖らしい。 犯人はタヌキと最初から割れているから倒叙物だろう。じきに人畜無害に見えるが実は切れ者のウサギ同心が登場する。ウサギ同心は巧みな心理戦を展開し、タヌキの完全犯罪をじわじわと暴いていく筋書きだ。 クライフォートは眉間に皺を寄せたまま立ち上がり、本の山まで歩み寄った。 下手に手を付けると山崩れが起きそうなので、とりあえず頂上付近を数冊チェックしてみる。 『大江戸UFO騒動!』 『平戸異人屋敷の決闘』 『化け猫騒ぎはじょんがら節』 『冥土からのお中元』 『面倒だ殺っちまえ!』 恭介の頭と趣味の悪さが知れるラインアップである。 本格推理というよりむしろB級アクション奇談尽くし。最後のタイトルなど、大風呂敷を広げすぎて収拾がつかなくなった遅筆の物書きの断末魔の叫びが聞こえてくるようだ。 うんざりしてため息をついていたら、いつのまに忍び寄ったのやら、左腕に新伍が飛びついてきた。しまったと思ったがもう遅い。 「義兄上〜! 仕事終わったんなら遊ぼうよ〜ねえねえねえねえ!」 「ちょっと待て。誰が終わったと言った誰が」 むろん新伍は聞いちゃいない。遊んでもらえると信じて疑わない子犬みたいな目でクライフォートを見上げている。 うまいこと新伍を腕から引き剥がす口実を考えていた矢先、障子が勢いよく開け放たれた。 「ぶらいあ〜ん! 蹴鞠しよ蹴鞠〜!」 なんの前触れもなく葵が座敷にずかずか押し入ってきた。 小脇に抱えているのは彼女愛用の蹴鞠の球である。絢爛豪華な蜜柑色の友禅を惜しげもなく普段着にして蹴鞠をする女など、江戸広しといえどこいつくらいのものだろう。 葵と新伍。この姉弟は揃いも揃って蹴鞠中毒なのだ。 食事時も寝る時も鞠を手放さない。いつだったか「鞠はトモダチ」とかほざいていた。彼らにとって友人とは蹴り飛ばす対象らしい。 葵はクライフォートの左腕にぶらさがった弟に目を留めて、 「あら竹千代。あんたまた来たの」 「もー姉上、オレの名は新伍だよっ!」 「あーはいはい、わかったわかった新伍ね。それよりぶらいあんから離れなさいよっ!」 「やーだよ。義兄上はオレの義兄上だもん」 「なんですってぇ、あたしのダンナだからあたしのものに決まってんじゃない!」 新伍に負けじと葵はクライフォートの右腕にしがみつき、声を荒らげる。 弟は左腕、姉は右腕にそれぞれ陣取り、真ん中に挟まれたクライフォートの迷惑など考えもせず、喧喧諤諤というよりキャンキャンニャーニャー壮絶な口喧嘩を始めた。 あまりの騒々しさに耳を塞ぎたくなったが、あいにく両手がふさがっていて果たせない。 さて、どうしたものか。 クライフォートが憂鬱そうに思案していると、葵が地団駄を踏んで怒鳴った。 「あーもう頭にきた! こーなったら勝負よっ!」 「こっちだって望むところだいっ!」 新伍の方も真っ赤な顔で鼻息荒く応じる。 いつものことだが怒りの沸点の低い奴らだ。 なんの勝負かといえば蹴鞠である。考えるまでもなくそうに決まってる。 こいつらにとってもめ事の解決法は蹴鞠勝負の一択のみ。理がどちらにあるかなど問題ではない。強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ方式。 それはさておきクライフォートは内心ほくそ笑んだ。 やれやれ、これで労せずして二人とも厄介払いできる、と。 葵はそんなクライフォートの顔をじっと見つめてにっこり笑った。 「ぶらいあんと一対一で勝負して抜けたほうが勝ち、それでいいわね!」 なんだと? 「よーし、勝負だ! ね、義兄上?」 新伍がうきうきと念を押してくる。断られるなど微塵も思っていない、前向きに押しつけがましい楽天的な笑顔で。 ちょっと待て。誰がそんなものにつき合うと言った。 クライフォートの心の叫びなどお構いなく、葵が思い切り右腕を引っ張った。 「そうと決まればさっさと庭に出よ、ほらほら〜」 「履き物なら心配ないよ! ちゃんと縁側に用意したから! 予備の鞠もた〜くさん!」 クライフォートの左腕を引っ張りながら新伍が言う。 庭に目をやると、いつのまにか松の木の根元に大きな背負い籠が置かれていた。中には蹴鞠の球が山と積まれている。 いやに手回しの良いことだ。 もしかしてこいつら初めからグルだったんじゃないか? 判で押したようにそっくりな笑顔で早く早くとせかす葵と新伍の様子に、クライフォートはそんな疑念を覚えずにはいられなかった。 >あとがき 新伍登場です。中身は葵たんと五十歩百歩。 義兄上が大好きな理由? 蹴鞠が一番上手いからに決まってんじゃん。 なんとも単純な世界観の持ち主です。 |
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