カッパの村 2009.09.12

昼なお暗い密林をさまようこと丸三日。疲労と空腹で意識が朦朧とするなか、最後の気力を振り絞って生い茂る羊歯の群生をかき分けると、サンターナの目の前に小さな集落が現れた。

「目の錯覚じゃ……ない?」

何度も目を擦っても、緑の樹海のただ中にぽつりと取り残された村は、まだそこにある。

俺はついに到着したのだ。サッカー王の住む村に。

喜びよりもむしろ安堵のあまりその場にへたり込んでしまった。
ロベルト監督から渡された地図はそれくらい常軌を逸したシロモノだったのだ。

コインブラの農道をひたすらまっすぐ行って、パウロの家の角で曲がり、ドトールの病院前の小川をずーっと渡っていき、トニーニョの教会隣の墓場の一番奥から四つ目の墓石をずらす。その下の地下通路をそのまま進むとジャングルの入り口に辿り着く……まではいいとして、

ジャングルの入り口を守るジウという名のアルマジロの尻尾の先を西に走り、オオカワウソのロベカルが寝そべる川を泳いで渡り、左足の魔術師の異名を持つリスザルの示す山を越え、カピバラの王様の道筋をたどれ……ってなんなんだいったい。

こんないい加減な道案内で、よくぞここまで辿り着いたと自分自身を褒めてやりたい。
手持ちの食料が尽きる前で本当に良かった。あのそこらじゅうに生えている、どう見ても怪しいピンク色のキノコを食べるなんて真っ平御免だ。

サンターナはリュックサックを背負い直し、ゆっくりと立ち上がった。
村の入り口まで行き、村の周りを囲む柵を修理している後ろ姿に近づく。丸首半袖シャツにハーフパンツ、頭は日よけのほっかむりという典型的な田舎のおっさんスタイルの彼は、熱心に作業を続けていた。

「仕事中すまない。俺はこの村に住むというサッカー王に会いに来たんだが……」

彼は振り向いた。
彼の緑色の顔には黄色いクチバシがついていた。
彼が差し出した手の指と指の間には水掻きがあった。

「クポ?」

彼は人の良さそうな声で言った、というか鳴いた。

そこでサンターナの意識はふっと途切れた。



気がつくとサンターナは誰もいない小屋の中で寝台に横たわっていた。
なんだか目眩がする。頭も重い。
もしかして俺は空腹のあまり卒倒して頭でも打ったのか?
だが意識を失う前に目にした“あれ”はいったい……。

あの…緑の…半魚人……いやあれは育ちすぎたグリーンイグアナだ。
半魚人なんてこの世にいる訳がない。半魚人なんて嘘さ。寝ぼけたバカが見間違えたのさ。

半ばムリヤリ自分に言い聞かせつつ、天井を見つめてぼんやりしていると、頭の上からほがらかな声が降ってきた。

「やあ君。目が覚めたかい。気分はどう?」

はっとして声の方へ視線をやる。寝台の傍らにいつのまにか若い男が立っていた。

「アマゾンで最奥の村にようこそ。僕はカリオだ。よろしく」

カリオと名乗ったその男は人好きのする笑顔で右手を差し出した。
サンターナは戸惑い気味にその手を握りかえす。

「ところで、君は弟に会いに来たんだってね」

弟? この男はサッカー王ナトゥレーザの兄なのか?
サンターナは驚いて目を見開いた。

「どうしてお前がそんなことを知っているんだ? 俺はまだ何も言っちゃいないぞ」
「ああ、それはね。君を運んできた彼から聞いたんだ」
「なんだって !?」

カリオの言葉にサンターナはあわてて寝台から身を起こした。
途端にひどい頭痛に襲われて思わず呻いてしまう。

「ああ、そんな急に起き上がっちゃダメだ。まだ少し熱があるんだから」

彼……彼だと? そんな馬鹿な。あれはイグアナだ!

「安心して。いま熱さましを煎じてもらってるから、それ飲んで一晩休めば大丈夫さ」

サンターナの“彼”に対する動揺を病への不安と勘違いしたのか、カリオは優しく言い添える

いや、違う。そうじゃないんだ。俺が言いたいのは……!
熱のせいかうまく言葉にならない。いらだつサンターナの肩を誰かがポンと叩いた。

「クポ」

顔を上げると緑色の顔に黄色いクチバシの“彼”と目があった。

「うわあっ、は、半魚人―― !?」

サンターナは声の限りに絶叫した。

「違うよ。彼は半魚人じゃないよ、サンターナ」

苦笑しながらカリオが言う。

「なっ、なんで俺の名前を知ってるんだ !?」
「君は幼い頃、場末の映画館でおじいさんと一緒に観た『愛と哀しみの半魚人』というB級ホラー映画のせいで、すっかり半魚人がトラウマになってしまったんだね。気持ちはわかるよ。でも落ち着いて」
「ななな、なんでそれを !? みっともなくてレオにも打ち明けてないのに―― !?」

カリオは穏やかな笑みを浮かべるだけで何も答えない。

そんな思いやりと哀れみのこもった目で俺を見ないでくれ。頼むから。
ていうか俺の内面に勝手にズカズカ踏み込むな! お前いったい何者なんだ !?

「そして君はバーラFCの会長の自宅で再びそのトラウマと再会した。そう、変態会長の趣味は半魚人コスプレだったから……」

これ以上カリオの名調子を聞かされるくらいなら、いっそ舌を噛んで死にたくなった。

「クポポ……」

そんな矢先、緑色のあれが「もうやめて〜! サンターナのガッツはゼロよっ」と諫めるような眼差しでカリオの服の裾を引っ張った。
寝台に突っ伏して羞恥に身もだえしているサンターナに気づき、カリオはニコっと笑った。

「よかった。すっかり落ち着いたようだね」
「クポ〜」

緑のあれは慰めるようにサンターナの肩をぽんと叩いた。木製の小さなコップをサンターナにそっと手渡し、飲めとジェスチャーで促してきたところから、これはたぶん熱さましの薬なんだろう。彼は黒目がち、というかほぼ黒目の部分しかない丸いつぶらな瞳でこちらを見つめて大きくうなずいた。

体が緑色だしクチバシついてるし頭の上に皿が載ってるけど、案外いい奴なのかもしれない。少なくとも人間なのに得体の知れないカリオよりもずっと常識人?っぽい気がする。

サンターナの胸中はいざ知らず、カリオは陽気に緑のあれの紹介を始めた。

「彼はカッパなんだ。大丈夫! カッパはトモダチこわくない!」

確かに。俺は善良そうなカッパなんかより、カリオ、お前の方が百倍怖い。

「彼の名前はガタロー。この村は人間とカッパが共存しているんだ。彼らの話によるともともと日本のトーノ地方に住んでいて、日系移民と一緒にブラジルにやって来たんだって」
「日本? ツバサの国から来たのか?」
「僕の弟と同じでね、カッパは空気が綺麗な土地でしか暮らせないんだよ」

なるほど。それでアマゾンの奥地でひっそり生活しているのか。カッパもサッカー王も。

……サッカー王?
サンターナははっとして顔を上げた。

「そうだった! 俺はそのサッカー王に会いに来たんだった! 彼はどこにいる?」
「ナトゥレーザなら君が来る少し前に出かけたよ。当分戻ってこないだろうね」
「出かけた? こんな奥地でいったいどこに」
「さあ。それは僕にもわからないけど、弟は何の前置きもなくふらっと姿を消すクセがあってね。一度消えたら数週間は戻らないんだ」

カリオはもの凄い内容をなんてこともないようにさらりと言った。

「そんな……せっかくここまで来たのに」

サンターナは失意を隠せず、がっくりとうなだれる。

「たまに数日で戻る時もあるから、二、三日待ってみるかい? 何もない村だけど君さえよければね。気が向いたら村の子供たちの相手になってやってくれないか。みんなサッカー大好きなんだ。君、サッカー得意なんだろ」
「え……しかし、それは」

カリオの申し出にサンターナは迷った。
実はブラジルユース代表の合宿を抜け出してここにやって来ているのだ。これ以上チームを放り出しておく訳にはいかない。

「クポポ」

見るとカッパのガタローが期待に満ちた目でこちらを見上げている。いつのまにかその両手に動物の皮で作った粗末なボールを抱えながら。傷だらけで、破れかけていて、それでも丁寧に繕われたこのボールを、彼はどれほど長く大切に使い込んできたのだろう。カッパもサッカーが好きなのか。なんだか胸が熱くなった。

「わかった。じゃあ少しの間ここに滞在させてくれ」
「そうか。よかったね、ガタロー」
「クポ!」

嬉しそうに何度も何度もうなずくガタローは本当にいい奴だ。一人くらいカッパの友達がいても悪くないんじゃないか、そんなことをサンターナが考えていると、

「ロベルトには僕から連絡入れておくよ。君は心配しないでゆっくり体を休めるといい」

連絡を入れるだと? どうやって?
サンターナがたずねるよりも先に、カリオはごついアタッシェケースから大きな無線機と受話器を取り出した。サンターナの目が点になる。

ちょっと待てカリオ。なんだその物体は!

「もしもしロベルト? ――ああ。サンターナは数日ここに留まるそうだから。うん、わかった。ナトゥレーザにそう伝えとくよ、それじゃ」

手早く用件を伝えてカリオは通話を切った。
ぽかんと口を開けて呆然としていたサンターナははっと我に返り、寝台から転げ落ちる勢いで立ち上がるとカリオに詰め寄った。

「カ、カリオ。ここって秘境だろ。電話繋がるのか !?」
「衛星電話ならかろうじて。今どきジャングルでも電話ないと辛いよね」

カリオはけろっとした顔で答えた。

電話が繋がるなら今までの苦労はなんだったんだ。
ロベルトのトンデモ地図に悪戦苦闘して三日もジャングルをさまよった俺の立場は?

ぐらっと視界が揺れ、サンターナは顔から床に目がけてぱったりと倒れてしまった。

「安心して気が抜けたんだね。うんうん、よかったね」
「クポー !?」

カリオのボケに「そりゃないで!」とツッコミを入れるようなガタローの声を遠くに聞きながら、サンターナは安らかに失神した。




>あとがき
kikiさんちのサイト2周年記念に贈ったもの。

日系移民と共にブラジルに渡った遠野地方出身のカッパたちは、不毛の地セラードの開拓ほか大規模農場などで今日も元気に働いています。←そんな訳ねえ。
とりあえずサンターナにボール君以外の人外の仲間が増えました。おめでとうサンターナ。

カッパはヤンジャンの『カッパの/飼い/方』に出てくるアレがモデルです。クポ!


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