■■ 025: 壁新聞 ■■
ビッキーは無言で壁面を見上げた。漆黒の黒髪はそのまま背中に流し、淡いクリーム色の簡素な衣に青と黄色を配した白い上衣を重ねた姿は、見知らぬ異国の巫女のような風情を漂わせている。 彼女の外見は7〜8歳の少女以外の何者でもない。しかしその顔つきには幼さなど微塵も感じられず、また緑の瞳は年を経た賢者のみが有する底知れぬ泉のような静謐さをたたえていた。 ビッキーは壁新聞に目を向けたまま、横に立つ茶髪の少年にたずねた。 「これは…いつから張り出されていたのだ?」 「え?ついさっき更新したばかりですけど」 アーサーはしょっちゅうずり落ちる眼鏡をかけ直しながら、なにげない口調で答えた。次いで肩にかけた取材用鞄からクリップボードを引っ張り出し、壁新聞のレイアウトをためつすがめつチェックし始める。 ビッキーの瞳に穏やかならぬ光が浮かんだ。 「………そうか。それは好都合だな」 ビッキーはゆっくりふり返ると、手にしたワンドを一閃した。ワンドの描く放物線に切り取られた空間が不自然に歪む。敏腕記者を目指す自称ジャーナリストの卵は、声をあげるいとまもなく時空の裂け目に吸い込まれていった。 「ふん。ゴシップ記者め。まったく面倒かけおって」 パパラッチの消えたあたりの空間を見つめながら豪然とつぶやく。そしてどこからともなく極太の油性マジックを取り出すと、壁新聞に向き直った。 壁新聞最新号のトップ記事は『真昼の珍事・銀の乙女の鉄拳制裁に散る変質者』。派手なゴシック体で綴られたアオリ文句の左横には、当時の状況を生々しく伝えるスナップ写真が添えられている。 写真右隅には呆然と立ちつくすトーマス、中央にはギョームに渾身の左アッパーを喰らわせるクリスの姿があった。どうやらトーマスとギョームの一騎打ちの際に、クリスが乱入した瞬間の激写と思われる。 ビッキーは眉をしかめた。 こんな真昼の茶番劇など、どうでも良い。問題は―――――。 マジックのキャップを外し、写真のとある部分へ手を伸ばしたそのとき、 「あれ?なにしてるんですか、ビッキーさん」 弾かれたようにふり向き、そのまま妙な格好で固まってしまう。視線の先にたたずんでいたのは、杖のかわりにホウキを携えた黒髪の脳天気魔法少年。 ビッキーは内心の恐慌を抑えつつ、うわずった声でロディに問い質した。 「お、お主。いつからここに!?」 「いま通りかかった所です。あ、壁新聞が新しくなってますね」 ロディの言葉に、ビッキーの心拍数が最大値まで跳ね上がる。万事休すとはこのことであろうか?一方、ロディは黄緑の瞳に興味津々といった光を浮かべて壁新聞を読み上げた。 「えーと。『ゲド隊長、猫小屋を作る』、『ジョー軍曹が妊娠!?衝撃に揺れるダッククランを密着取材』、『穴を開けたらそこはトランだった……掘りすぎたモグラ男トワイキン』……ですか。なんだか面白そうですね」 危うくがっくり脱力しそうになりながらも、すんでの所で踏みとどまる。ビッキーは二、三度大きく深呼吸すると、ロディを怒鳴りつけた。 「何故に壁新聞を下から読むか、お主は!」 「え?上から見た方が良いですか?」 おっとりと育ちの良さげな仕草で首を傾げると、ロディは言われるまま壁新聞上段に目を向けた。一秒、二秒、三秒……のんびりした顔に驚愕の色が走る。 ロディはしばらく壁新聞を食い入るように眺めたあと、動転した表情でビッキーをふり返った。 「ビ…ビッキーさん、これ……!」 「そう、そこに写っておるのは………」 ロディの言葉を継いで、ビッキーが苦虫を噛みつぶしたような表情で語り出す。しかしロディの思考回路は今回もまた、はなはだしくピントずれしていた。 「明日からレストランでムササビアイス新発売なんですって!」 「どこを見ておる、この阿呆―――――――!!!」 ビッキーは絶叫とともにロディの頭をしたたか殴り飛ばした。そして間髪を入れず壁新聞に向き直り、叩きつけるようにワンドである部分を指し示した。例のトップ記事関連写真である。 「お主の目は節穴か!ここをよく見てみい!」 「え?あれ……なんで父さんがこんなトコ写ってるんですか?」 ロディは怪訝そうな顔でビッキーにたずねた。 ワンドの先端部が示していたのは黒髪に黄の瞳を持つ青年。彼は多数の見物人たちに混じってカフェテラスの椅子に陣取り、ビネ・デル・ゼクセの街角で繰り広げられる真昼の珍事を、場違いなほど涼しげな笑顔で見つめていた。 「服装は違うけど、このいっけん優しげでいてホントは相手を見下しまくってる表情からして、間違いなく父さんですよね。こんな所で何してるんでしょう?」 「確かこの時代のリアンは情報収集の為の視察と称して、意味もなくフラフラ諸国放浪しておったからな。ゼクセンに出没しても不思議はあるまい」 まったくどいつもこいつも余計な面倒ばかりかけおって。心の中で毒づきながら、ビッキーはうんざりとした様子で肩をすくめる。 ロディがふと思いついたように顔を上げた。 「でもどうしてマジックで塗りつぶそうとしてたんです?」 「証拠隠滅を図っただけだ。……あの娘に見られる前にな」 妙なところで目ざとい奴め、と舌打ちしつつ、ビッキーは表向きは平然を装って答えた。そう、見られてはまずいのだ。少なくともあの娘にだけは絶対に。 ふいに背後でカツンと乾いた音が響いた。 跳ね上がる鼓動を抑えてふり向く。ビッキーの顔が引きつった。後ろに立っていたのは、年の頃は15〜6歳ほどの長い黒髪をなびかせた緑の瞳の美しい少女。その姿形はビッキーの10年後と言ってもおかしくないぐらい、不自然なまでに似通っている。 「ビッキー!?お主、いつのまに………?」 ビッキーの狼狽しきった叫びなど、まったく耳に入っていないようだ。彼女は呆然と壁新聞の写真を見つめたまま、凍り付いたように立ちつくすばかり。 ロディは身をかがめて床に転がったワンドを拾うと、年嵩のビッキーに差し出した。 「どうしたんですか、大きいビッキーさん」 返事はない。ビッキーはぽっかり口を開けたまま、彫像のように固まっている。ロディは少女をいぶかしげに見つめると目の前に手をかざし、2〜3度パタパタ上下に振った。 ビッキーは突然、呪縛から解かれたかのように大きな目をしばたたかせ、はっと息をのんだ。 「わたし、行かなくちゃ!」 声とともに、ビッキーの周囲にほの明るい白光があふれ出す。これはまぎれもなく時空をねじ曲げる空間転移の光。 緊迫感のカケラもない面持ちでロディが訊いた。 「あの、大きいビッキーさん。行くってどこへ?」 「いかん!止めるのだ、ロディ」 「あ、はい。わかりました」 有無を言わせぬ鋭い声に、あわててロディは位相空間に飛び込む寸前のビッキーの左腕をつかんだ。それを目の端で確認するや小さいほうのビッキーもワンドを投げ捨て、もう片方の腕に飛びつく。 引き留めるビッキーの強力な次元干渉の波動と、前に進もうとするビッキーの空間転移の波動が真っ向からぶつかり合った。拮抗する力の余波を受け、空間全体に満ちる白い光の波が大きく揺らぐ。 「放してっ!早くしないとまたいなくなっちゃう!」 ロディは必死に暴れるビッキーの腕を抱えたまま、困りきった顔でもうひとりのビッキーにたずねた。 「えーと。どうします?」 「死んでも放すな」 「わかりました。ということですみません、大きいビッキーさん」 ロディは律儀に頭を下げて謝ると、抑える腕にさらに力を込めた。同時に輝く光があふれ出す。それはビッキーたちと同じ、次元を操る時空の瞬き。ロディの無意識による力場への干渉によって、二人の力の均衡は破られた。 じわじわと、しかし確実に空間の歪みは修正されてゆき、ついにビッキーの転移能力は強引に封じられた。 「そんな……こんどいつ逢えるかわからないのに……!」 なかば放心状態でつぶやくと、ビッキーはくずおれるように床に座り込んでしまった。流れ落ちる涙もそのままに、緑の双眸に虚ろな光をたたえながら、心ここにあらずといった風情で虚空を見つめている。 その様子にビッキーは軽くため息をつくと、やおら右手を上げ、茫然自失したままのビッキーの横面を張った。 「ビ、ビッキーさん!?暴力はいけませんってば」 ロディの制止など一顧だにせず、返す手でもう一度ビッキーの頬を打つ。突然の頬の痛みにビッキーははっと我に返った。大きな目をさらに見開いて眼前の少女を見上げる。 「………やっと正気に戻ったか」 水を打ったような静けさのなか、泰然とした声が響く。 「のう、お主は約束したのだろう?この城で世話になっている間は最大限の協力をすると。なのに自らの都合で、その義務を反故にするのはいかがなものか?」 氷の棘のように冷ややかな指摘が容赦なく胸を貫いた。けれどビッキーは精一杯の気力をかき集めて、なおもか細い声で言いつのる。 「だってだって……わたし…リアンさんに………」 ビッキーの瞳に哀れむような光がよぎる。 しかしそれもほんの一瞬のこと。すぐにもとの冷然とした眼差しを取り戻し、淡々とした口調で語り出した。 「そういった不義理はあやつが最も厭うもの。それを十分わきまえたうえならば、どこへなりと好きに行くが良い。止めはせん。だが………」 いったん言葉を切り、真正面から涙ぐむ少女を見据える。なんら感情の見えぬ冷めた緑の瞳と、戸惑いのたゆたうやわらかな緑の瞳が交錯する。 ややあってビッキーは口を開いた。 「あやつの心に恥じない自分でいたいならば、己が務めを果たすのが最善であろう?」 挑むような口調は、問いかけというよりむしろ断定に近い。しかしその言葉は乾いた大地を潤す恵みの雨のように、ビッキーの心に静かに染み渡っていく。 そっと胸に手をあてる。まだ少しだけ胸の痛みは残るけれど。千々に想い乱れる心の裡は、いつのまにか凪いだ海のように穏やかになっていた。 ビッキーは軽く息をつき、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 「……そう…そうだよね。リアンさんそういうの、嫌いだったよね……」 「納得したならさっさと自分の職務に戻るがよい」 「うん。わたし、がんばる」 ビッキーは健気に涙をぬぐってうなずくと、ワンドを拾い上げた。まぶたを閉じて呪文を唱える。 「―――えいっ!」 気合いのこもったかけ声と同時に、ビッキーの姿は廊下から消え去った。小さいビッキーが手すりから身を乗り出して階下を見下ろすと、いつものように玄関右横の定位置にたたずむビッキーの姿が見えた。 「やれやれ。手間をかけさせおって」 「そうですね。空間バランスがムチャクチャなのにすごいですよね!」 「………そういえば、そうだな」 ロディの言うように、現在、城全体の空間は混沌のるつぼと化している。それほどまでに先ほどの力の衝突の影響は凄まじかったのだ。しかしビッキーはこの空間変調をものともせず、なんなく転移しおおせた。ボケてはいるものの、能力自体に衰えはないと言った所であろうか。 腕組みして考え込むビッキーに、横からロディがたずねた。 「ところで。なんで大きいビッキーさんを止めたんです?」 「いついかなる時空においても、この日この時、彼らは出会ってはおらん」 「でもそれぐらいの干渉なら時の因果律の許容範囲内でしょう?」 痛い所をつかれてビッキーは言葉に詰まる。 たとえて言うなら歴史とは、目に見えぬ時間の膜に覆われた卵のようなもの。時は柔軟にして弾力性に富んだ不可視物質。誰かがその表面に小石を投じても、せいぜい外壁の時間流を波立たせるだけで、肝心の中身を傷付けるにはいたらない。 ゆえに過去への時間干渉は、大きなタイムスパンからみれば在って無きに等しいものといえるのだ。 珍しく真顔でロディが続けた。 「それとも……なにか他に訳でもあるんですか?」 「な、なにがあるというのだ!?」 予期せぬ不意打ちに、ビッキーはつい声高に問い返してしまった。あわてて別の話題をそらすべく口を開いたが、時すでに遅し。 いつものビッキーらしからぬ動揺ぶりにいぶかしげな視線を送りながら、ロディはこの問題に潜む尋常ならざる核心をズバリ端的に言い当てた。 「ですから。ビッキーさんが、父さんと大きいビッキーさんを逢わせたくない理由ですけど」 「り、理由なんかなにも無いぞ!!!」 ビッキーは振り切れんばかりに首を左右に振って絶叫した。 背中に冷たいものが走る。ここはなんとしても回避しなければ。本気になれば難なく自力で真実を見つけ出してしまうに違いない。普段は我ら一族に特有の半ボケ状態にあるとはいえ、ロディは天災の天才の名をほしいままにするあの男の血も引いているのだ。 拳を握りしめて気合いを入れ、適当な言い訳を見つくろっているさなか、ロディが何事か思いついたかのようにポンと手を打った。 「あ、そっか。ひょっとして…………!」 「……………ひょっとして、なんだと言うのだ!?」 ほとんどヤケになって喧嘩腰で叫ぶ。 いよいよ事態は風雲急を告げた。「ビッキーさんは父さんのこと、好きなんですか?」攻撃が来るのは時間の問題。あとは芋蔓式にずるずるとすべて明るみに出てしまうだろう。 ここに来てビッキーはようやく覚悟を決めた。遅かれ早かれ話さなければならないのだ。これ以上自分の業をロディに背負わせるわけにはいかない。決然とした表情で面を上げる。 ロディはしごく真剣な眼差しで壁新聞に見入っていた。 「ロディ、大事な話がある。実は今まで隠しておったが―――――」 なにか苦いものを感じつつ、ビッキーは口火を切った。 だがしかし。ロディは顔だけこちらをふり向くと脳天気な笑顔でのたまった。 「ビッキーさん。“ムササビ”の古代神聖語の草書体スペル、ご存じじゃありませんか?ここが埋まれば縦の鍵が完成するんです」 数十秒のタイムラグののち、ビッキーは無言でロディと壁面を見やった。 ロディの右手には水性ボールペン、壁新聞右下の枠内にはクロスワードとパズルの盤面。解答の書き込み具合から鑑みるに、ロディはさっき自らが投げた問いもコロっと忘れて、壁新聞のクロスワードパズルに専念していたのだ。 一瞬、怒りのあまり目がくらむ。わなわなと全身を震わせるや、ビッキーは手にしたワンドでロディの頭をはたいた。 「こ…この阿呆めが―――――!!??」 ロディが家族の真実を知るのはまだ当分先のことらしい。 End |
*Data* | |
No. | 025 :壁新聞 |
Update | 2003/07/07 |
Author | 石猫麻里 |